江戸時代初期~中期の築地:武家地として発展

 江戸時代の築地は大半が武家地で、大名の別荘地である中屋敷や下屋敷が多くつくられ、下級武士の邸宅も分布しています。現在の築地市場にあたる場所は寛政の改革を断行した時の老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)の下屋敷でした。お堅い政治理念と裏腹に隠居後ここに浴恩園(よくおんえん)という豪奢な庭園を築きます。二万坪の園内には中国の景勝に見立てた五十一ヶ所のミニチュア名所をつくり、春風(しゅんぷう)、秋風(しゅうふう)と名づけた池に桜と紅葉を植え春秋それぞれに楽しんだといいます。

 商業活動をみると、河口部の立地条件の良さから廻船問屋(かいせんどんや)が多く、また、武家と町人の居住が隣接していたので屋敷相手の商売を目当てに米、炭、薪、肴屋などの問屋、仲買が集中して活況を呈した様子がうかがえます。南小田原町西南には御米蔵(おこめぐら)があって、周辺に精米をおこなう搗米屋(つきまいや)が数多くできました。しかし海岸地のため潮風で米がふやけてしまい、1717年(享保二年)に浅草蔵前に移されます。その跡地は1855年(安政二年)に武芸訓練のための講武所(こうぶしょ)、1857年(安政四年)に航海や砲術訓練のための軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)、1869年(明治元年)には外国人宿泊のための築地ホテル館と、幕末の時世を象徴する施設がつくられています。