江戸時代末期~幕末の築地:異国文化に隣接した漁師町

 幕末の頃、江戸に居留地をつくろうという計画が、維新をむかえ明治政府によって実現します。1869年(明治元年)築地鉄砲洲(てっぽうず)(現在の明石町付近)に設けられた外国人居留地は、あらたな首都東京における相互貿易市場として広く外国の異文化を取り入れる窓口となりました。「外国人の住宅ばかりで、どこからともなくピアノの音や讃美歌のコーラスを聞く時は一種のエキゾチックの気分に陶酔する」と明治の文化人内田魯庵(うちだろあん)は書いています。先進的な学問、技術を摂取する場所となった築地は、町並みにも日本のなかの外国といった趣きがあったといいます。ホテル、ミッション・スクール、病院、税関、レストラン、パン製造、活版印刷、指紋研究、測量術、建築術、語学、宗教・・・築地から次々と生まれるあたらしい事物は、明治の軽薄な欧化礼讃(おうからいさん)とあいまって、東京市民に物珍しくハイカラな文明開化の気分を醸成していきます。

 西洋風に彩られた明石町、木挽町(こびきちょう)界隈とうってかわって、南小田原町辺は「向築地(むこうつきじ)」などといわれ、昔ながらの漁師町の風情を残しました。日本画家鏑木清方(かぶらぎきよかた)の随筆に「鎮守波除稲荷の祭礼にここの獅子が出ると血を見ねば納まらない」とあるように、江戸の心意気が息づいていたのでしょう。