大正期~震災後の築地:魚がしと問屋街の発達

 1923年(大正12年)の関東大震災は東京から江戸の残滓(ざんし)を消し去ったといわれます。震災後の復興計画で築地界隈も変貌をとげました。区画整理による町名地番改正が混乱をうみ、晴海通りの開通で町を分断され、築地からはかつての洋風の町のイメージがうすらいでいきます。そして何よりも震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきたことが町を大きく変えました。

 海軍ヶ原とよばれた築地海軍技術研究所用地に建てられた東京都中央卸売市場築地本場は、魚河岸を起源とする水産物部と京橋の大根河岸(だいこがし)を移した青果部からなります。正式には1935年(昭和10年)の開業ですが、それまで10年あまり、業者収容に関するトラブルで産みの苦しみに似た期間を過ごしました。

 本願寺はもともと西南の方角を向いていて、参道に門前町を形成していました。しかし震災による被害で境内の多数の墓地が和田堀(わだぼり)へと移転します。そこに中央市場の盛況に合わせるように水産物商などが入ってきて、自然発生的に発展したのが場外市場です。墓地の跡地で商売をすると繁盛するという巷説どおり、全国から集ってくる食品・調理用品を扱う店舗は五百を数え、都内最大の問屋街にまで成長をとげます。