受けた恩義を生涯、忘れず

丸山利輔 / (大正2年生まれ) / 丸山海苔店

受けた恩義を生涯、忘れず  共栄会ビルの1階にある丸山海苔店。会長の丸山利輔さんは93歳である。以前、「築地物語」で取材させていただいたことがあるが、 背筋がピンと伸び、 かくしゃくとした印象はいまも変わらない。

丸山海苔店は安政元年に日本橋で産声をあげて以来150余年、のりのうまさをみがきあげている築地の老舗である。 創業者の彦兵衛は、海苔の運搬に和紙 が用いられていた時代にあって、唐物を輸入する際に使用されていたブリキの空箱に着目し、 より保存にすぐれ、運搬にも便利な海苔専用の貯蔵箱を考案した という。このアイデアこそ、現在の金属の缶で海苔を販売するようになった先駆けとして知られている。 丸山海苔店は3000軒の寿司屋さんをはじめ、老舗 の料亭、蕎麦屋さんなど味の玄人から信頼され、育てられてきた。

戦前、築地場外市場の小見山商店の前に店舗を構えたという。「私は兵隊にとられて、昭和21年9月末に帰ってきたら、 築地2丁目にある家(中央区の文化財)は焼けていませんでした。でも、商売をするにも海苔がなくて困難だったところに、 伊勢で青海苔を扱っていた知人の山中さんという人が、月島の倉庫に青海苔を40本送ってきてくれました。 それはありがたかったです。冬場になるとお餅やバンドという海苔を必ず送ってくれたんですよ」

場通り(現在の新大橋通り)を一本挟んだ四つ角に建つ共栄会ビルは、戦前には林病院という大きな病院があった。 その病院の跡地にマーケットができ、 最初につまもの屋、次いで漬物の金久が入ってきた。 丸山さんも出店を勧められ、その隣で商売を始めた。昭和22年のことである。 「戦後、どういうわけか築地には食べ物が集結していたので、物があればよく売れた時代でした。 向こうの共和会とは、通りを一本挟んでいるだけなのに、ず いぶんと離れた感じがありましたね。 われわれ共栄会はお客さんをこちらに向けようと頑張りましたよ。当時、買い出しの人たちは籠をしょってね、電車で築地へやってきました」

海苔一筋。時代の波とともに、海苔の生産地も様変わりしていく。丸山海苔店が日本橋で商売をしていたときは、東京湾でしかとれなかった海苔を大阪方面 に出荷。 しばらくは大問屋が全国を制覇していた時代が続いたが、戦後は瀬戸内海と有明湾で始められた養殖が盛んになり、また、東京湾の埋め立てによって 海苔の市場にも大きな変革があった。

「商売を続けながらいつも恩を感じているのは、商売をしたくても物がなかった時代に受けた恩義、信頼関係に支えられて戦後のスタートを切ることができたということです。 それが現在の商売の原点でした」

丸山さんは「本当にあのときの恩義はありがたかった」と何度も繰り返された。

「うちと寿司屋さんとは切っても切れない関係にあります。贔屓先も三代、四代にわたり、長いつきあいが続いています。 江戸前寿司とともに築地から育った 店が老舗として繁栄していきましたが、ここにきて新しいスタイルの寿司屋さんが登場して、築地の本来の姿が失われつつあります。 でも、老舗の伝統は時代 の流れの中で残すべきものは残し、改善してくものはしていくことが大事ですね」

日本橋から築地へ、海苔一筋の商売を貫き通した丸山さんが築地に寄せる思いはとても深い。

(平成17年 龍田恵子著)