寺町の子が、商売を始めて

菅 隆志 / (大正15年生まれ) / 菅商店

寺町の子が、商売を始めて  築地4丁目10番にある菅商店は冷凍食品、惣菜を扱い、その店頭はいつも活気にあふれている。12年前、築地物語の取材で初めてこの店を訪れたことが思い出される。 「はい、毎度さん! ジャンボ五十に、カニシューマイが百、ハンバーグは十個ね」と客の注文を軽快に受ける菅さんのよく通る大きな声。 そして、「ひと、ひとや~、ふた、ふたよ~」と独特の節まわしで人気商品のジャンボシューマイを数えていたのが印象的だった。元気な声は当時と変わらず、とても80歳とは思えないほど若々しい。

菅商店は昭和23年の創業で、菅さんが一代で築き上げたが、そもそも菅さんのお父さんは、築地4丁目が築地門跡と呼ばれ、まだ築地3丁目だったころ、 現在のカネシンの辺りにあった安養寺の住職だった。大正のはじめころから、筑前琵琶、テニス、野球、水泳をしたりするモダンボーイで、築地市場の・河内山・と呼ばれた粋人だったという。

ご存知のとおり、現在の築地4丁目は江戸時代の嘉永年間から関東大震災があった大正12年までは本願寺の末寺がずらりと並ぶ寺町だった。 〈築地の歩み 歴史地図&昔語り〉の地図を見ると歴然である。さらに、4枚の重ね地図から、安養寺は菅商店の後方、現在のカネシンの辺りに位置していたことがわかる。

大震災で寺町は壊滅し、ほとんどの寺がよそへ移っていった。そして、跡地には日本橋から移転してきた老舗をはじめ、店が並んでいくのだが、 昭和10年ころまでは、寺や地主の地所。家作を借りて店を開き、そこを自分の土地として買ったのは、ほとんどが戦後であると聞いている。

菅さんは遠い子どものころの記憶をたぐり寄せる。10番地の菅商店の後方はカネシンまで空き地になっていて、そこで子どもたちはメンコ、ベーゴマなどをして遊んだ。 夕方になると、コウモリが飛んでいた。隣近所の付き合いも、人情にあふれていた。以前に聞かせてもらった面白いエピソードがある。 菅さんの家の並びの小見山商店には幼友達の小見山順一郎さんがいて、茶碗と箸をもって、「隆志ちゃん、ごはん食べさせて」とやってきたという。

「おまえは好きなことをすればいいのだ」という父親の言葉どおりに、菅さんは寺を継がずに工業学校へ進んだ。昭和19年3月、特幹1期生を志願して、終戦と同時の8月に復員した。 「復員手帳を持っていなかったけれど、いま帰らなければシベリアかっていうんで、浜松の飛行学校から富山へ行き、富山から直江津まで乗り換えたときに、 『東京は全滅』だよと聞かされ、上野に着いてみたら焼野原でした。そのときの場外には営業している店なんてなかった。ゆで小豆を売ったり、 進駐軍相手に日の丸の旗や節句の人形なんかを売っているのを見ましたけど、ちゃんと商いが始まったというのではなかったですね」

戦後の混乱期では、就職などできる状態ではなかった。仲間と協同でかまぼこ屋を始めた。口に入るものなら何でも売れた時代だった。 2年後には、母、弟の3人で店を構えた。世の中、結婚ブームとあり、かまぼこ屋は大繁盛。 店舗も増えた。しかし、ブームが下火になると、かまぼこだけでは商売ができなくなり、つみれ、揚げボール、シューマイ、カツオの角煮といった惣菜も店頭に並んだ。 以来、同じ場所で家族と共に商売を続けてきた。現在は長男の宏行さんに代が変わったが、菅さんもまた生涯現役を貫き、相変わらず元気な姿で店に立っているのである。

そして、菅さんといえば、会長もつとめる江戸囃子の「多々幸会」の存在である。昭和32年に囃子と出合い、魅せられた。日本橋にこの江戸囃子の師匠がいたので、習いに行った。 「太鼓をたたくのが楽しくて仕方がありませんでした。早く覚えたい一心で太鼓を叩きました。雨だれの音まで太鼓の音に聞こえてきたくらいでした」

半年後、菅さんは波除神社祭で太鼓をたたいた。以来、桃太郎山車が出るが、子どもたちがそれにのって太鼓をたたく。 いなせな半纏を着た衆が神輿をかつぎ、屋台を引く。その運行の流れをつくるのが囃子連である。太鼓と笛のにぎやかな音曲が祭りを盛り上げる。現在も子どもたちにはお囃子を教えている。

菅さんは築地場外で親交のあった11人が集まってできた有名な「へちま会」のメンバーの一人でもあった。 しかし、年々、亡くなる人のほうが多くなり解散してしまった「へちま会」だが、菅さんにとっては忘れがたい思い出がたくさんつまっている。

菅商店は長男の宏行さんへと引き継がれたが、生涯現役の菅さんは毎日店頭に立って接客につとめているのである。

(平成18年 龍田恵子著)