北海道から貨車でガタガタ揺られて一週間、塩がしみて旨味を増した鮭

田所静夫 / (昭和7年生まれ) / マルタ食品

北海道から貨車でガタガタ揺られて一週間、塩がしみて旨味を増した鮭  築地で天然の鮭にこだわり続けた近富食品に昭和22年から務めていた田所さんは、6年前に場外市場に「マルタ食品」を開店した。 鮭は天然物、たらこ、筋子、数の子などの魚卵は近海物にこだわっている。

「伯父が近富食品をやっていた関係で、わたしもそこで働いていたんですよ。 今のように冷凍物も養殖物もなかった時代の鮭は塩引きが主流で、北海道の秋鮭、北洋の時鮭などを扱っていました。 最近は養殖物が多いし、レインボウトラウトというのも出回っていますが、やはり、鮭は天然物にかぎります」 田所さんの話に出てきた塩引き鮭は、昔ながらの山漬けという製法で作った鮭のことである。 塩と鮭を交互に高く積み上げ、20日以上熟成させ、数日おきに上下を入れ替えて鮭の水分を出し切って熟成の味になるのだ。 常温熟成。この手法は江戸時代からあり、北海道の新巻鮭などはその代表的なものだ。 「戦前、樺太では鮭の野積み式というのがあって、鮭に塩を振ってどんどん重ねて山にしてそのまま外で冬を越します。 雪が積もって凍ってしまう。それを氷が溶けたころに持って帰ってくる。その鮭が大変にうまかったという話を聞いて、食べてみたいものだと思いました」 国内産の天然の鮭はシロザケのことを指し、秋鮭や時鮭のほかに、時不知鮭(トキシラズ)、目近鮭(メヂカ)、そして幻の鮭と言われる鮭児(ケイジ)などがある。 その一生が壮大なロマンと謎に満ちている魚だけに、昔からある山積みという製法には心ひかれるものがある。 「山積みとはちがいますが、昭和20年代ころは北海道で水揚げした鮭は頭と腹わたを取って塩を振って木箱に入れる。 それを貨車に積んで運んだのです。1週間かかってようやく市場に着く。貨車にガタガタ揺られるものだから、箱の中の鮭はいい具合に塩がしみてきてうまい。 毎日、20~30箱売れた時代ですよ。いまの鮭は塩にはしているけど甘い。冷凍のトラックに入れて、それをまた冷蔵庫に入れてしまうから、塩が効いていないのですね。」 なるほど、手軽にスーパーなどで売られている鮭などを食すると、子どものころに食べた鮭の味とは格段の差があることに気づくのだ。 そういえば、しっかり焼いてあるのに生臭い鮭というのはどうしてなのかと聞いてみると、それは養殖の鮭なのだそうだ。

長年、筋子やたらこも扱ってきた。筋子を食べるのは日本ぐらいだが、戦前に日本人がアメリカから筋子を持ち帰ってきたのがはじまりだという。 「アメリカ人は筋子を食べません。だから、鮭の卵を捨てていたんですね。それに目をつけた日本人が卵を集めて塩にして持ってきたのです。 昔、魚のあらばかりを集めていた“はらわた屋さん”という人もいました」 アメリカ人が捨てていた筋子は塩蔵して、高価な食材になった。たらこもまたしかりである。 昭和20年代、30年代の市場は人であふれていた。いまのように一般客や観光客でにぎわう市場ではない。田所さんの目に映った光景もまた、当時を知る人たちと同様である。 「オート三輪、4tトラックがどんどん入ってきて、都内のあちこちから電車や都電に乗って魚屋さんや乾物屋さんがやってきた。 にしんがよく獲れたときなどは、毎日入ってきました。場内に引き込み線があったので、汐留から貨車が着くんですよ。 私なども、川越、木更津、小田原まで配達に行き、上野のアメヨコにも納めていました。当時は新富町にあった伯父さんの家の2階に、若い衆7人と住み込み。 毎日、忙しかったということばかりが思い出されます」

茨城で生まれ育った田所さんに戦時中の話も少しだけうかがった。

「国民学校に通っていました。朝礼のときに空襲警報がなるのでそのまま家に帰されるんだけど、警報が解除になる。 それで、きょうは学校には行かなくてもいいのかなと、勉強をするどころではなかったですよ。東京大空襲があったときは、空から灰がパラパラと落ちて来たのを覚えています」 子どもたちは鍬(くわ)を持って学校へ行く日々。林の中に入って土を盛り上げて、サツマイモやジャガイモの苗を植えたり、いなごを採ったりした。食料不足を補うためである。 「家は農業で米もつくっていましたけれど、統制だったので白いご飯は食べられなかった。 それから、みんなに見送られて出兵する兵隊さんが挨拶するのを見て、子ども心に自分のときはどうやって挨拶したらいいのかな、なんてことを思っていましたよ」

そう言って、田所さんはおかしそうに笑ったが、やはり、60数年前の子どもたちの姿を想像すると胸がつまる。 朝4時半、田所さんは門前仲町からバイクに乗って築地へ。息子と甥っ子の3人で店に立つ。生涯現役である。

(平成18年 龍田恵子著)