築地にはまだ自然があった!そして仲間がいた!!

大森英則 / (昭和16年生まれ) / 牛どん大森

築地にはまだ自然があった!そして仲間がいた!!  新大橋通りに面した「牛どん大森」は昭和40年頃まで「越前屋」といった。それは初代が福井県勝山市の出身だったことから名付けられたのである。 大森英則さんは昭和16年築地に生まれ、築地小学校に通い、大学を卒業するまでの約23年間(戦時中、一時、疎開)を現在地で過ごしている。

「吹田商店が所有する長屋の一画を、間借りしていました。ヨネモトさんの裏です(長屋は平成18年道路拡張のため取り壊しとなった)。 鳥藤さん(現在鳥藤分店)では、生きたニワトリの入った籠がいくつもあってにぎやかでした。また、現在は“すし一番”になってしまいましたが、 昔は野沢屋という川魚屋さんで、竹ざるにはうなぎやどじょうが入っていて、常時、水を掛けているのを見かけました」

そして、場外市場はご存じのとおり墓地の跡地である。工事現場からは骨つぼや古い遺骨が出土した。 大森さんがお母さんから聞いた話では、住まいの吹田商店の表屋が水洗トイレの工事をした時に相当数の骨つぼが出たそうだ。

「私自身も裏の店が改装する時に20個ぐらい見ているし、町会事務所近くの新築工事の時はガイコツが二、三体出たのをよく覚えていますよ」

いまでこそ、場外市場に住んでいる人は少なくなってしまったが、戦前戦後は店と住まいがいっしょだった。 内風呂が少なかったので、ほとんどの家庭は銭湯を利用していた。現在の山一水産ビルのところにあった築地湯は夜11時まで営業しており、 いつも男湯は満員状態。肌に刺青を彫った威勢のいい男が常時2、3人はいたという。また、女湯の方は、NHKラジオ放送「君の名は」の時間帯にはがらがらで、 全国的な現象だったのだろう。そのほか、築地2丁目から小田原町に4軒ほど銭湯があった。

「場外は朝から売り手の客引きの声で、賑やかでした。私の家では祖父や母たちが朝4時には起きて仕込みを始めていましたが、 私はまだ学生だったので、7時頃まで寝ていましたが、外があまりにもうるさかったのでゆっくり寝ていられませんでした。だから、中学生のころは、年中、寝不足でしたよ」

朝が早い築地市場、大森さんが語る想い出から、少年の目でとらえた人々の暮らしぶりがいきいきと伝わってくる。  都電が走っていたのも忘れられない想い出だった。11番(新宿←→月島)が晴海通りを走っていて、買出人のほとんどがこの系統を利用していたため、 車内は魚臭かったという。他に12番(築地←→錦糸町)、8番(築地←→中目黒)、また荷物専用車も走っていたのである。

「乗り物もずいぶん変わりました。昔は三輪のトラックが主流でした。いつのまにか姿を消したけど、子ども用の三輪車に屋根をつけたような感じで、 ハンドルは今のバイクみたいで、両手で梶をとる方式でしたが、後にハンドル式に変わりました。三輪のタクシーというのもあったんですよ。 タクシーといえば、相乗りといって、何人かが同乗して料金は各々別途に支払っていました。また、木炭車のタクシーも見たことがあります」

さて、遊びの話におよぶと、これまた臨場感あふれるエピソードが次から次へと飛び出してくる。子どもたちの遊びは実に豊かだった。 男の子の遊びは、メンコ、ベーゴマ、鬼ごっこ、カンケリ、砂場でのビー玉遊びが主で、正月には本願寺の境内でタコ上げが流行っていた。 模型飛行機(ゴムでプロペラを回す)も人気で、大森さんもキットを買って作った。 紙芝居は戦前戦後の子どもたちの楽しみの一つだった。大森さんが子どもだったころは「黄金バット」がブームで、毎日、午後3時頃になると、 現在の「たまとみ」の辺りには紙芝居のおじさんがたたくタイコの音に引き寄せられて、どこからともなく子どもたちが集まってきた。アメなどをなめながら、紙芝居の世界にわくわくしたものだった。 

昭和20年代~30年代の子どもたちは家の外で遊んだ。車が少なく、路地や空き地がいたるところに存在していた。 野球をするのは本願寺の境内。春、夏になると本願寺には蝶々やとんぼ、せみもやってくるので、子どもたちは夢中で追いかけた。

「境内の裏には築地川が流れていて、鮒や口ぼそもいました。川の水は緑色で汚かったのですが、夏にはたまに泳いでいる人も見かけました。 戦時中は、境内に防空壕が掘られ、赤鳥居さんが食器の倉庫として利用されていた時もありました。その赤鳥居さんも場外から姿を消して久しいのですね」

 本願寺の境内は自然の宝庫だったと大森さんは振り返る。四季折々の風情があった。記憶の一部をここに書き留めておこう。 〈春〉 梅や桜の木が何本もあって、春を告げていた。 〈夏〉 せみ/にいにいぜみ、あぶらぜみ、みんみんぜみ、つくつくほうし。 とんぼ/しおからとんぼ(オス)、ムギワラとんぼ(メス)、 ギンヤンマ(オスをギン、メスをチャンと呼んでいた)、 オニヤンマ(めったに見なかった)、いととんぼ(いろいろな色あり) バッタ/とのさまバッタ、コメツキバッタ 蝶/もんしろ、きもんしろ、あげは2~3種(ヘビを見たことが2~3回ある) 〈秋〉 紅葉(主にイチョウ、これは今もある) 赤とんぼ(今では想像もつかないほど飛んでいて、 ベランダに干した布団には、よく止まっていた) 〈冬〉 当時はよく雪が降り、30cm積もったことも、何度かある。 雪が積もると青竹を切った即席のスキー板で滑っている人が何人もいた。 雪合戦は、当たり前。

本願寺を巡る四季の風景とともに、浜離宮恩賜庭園の自然も子どもにとっては魅力あるものだった。大森さんは浜離宮で弁慶ガニを捕った。 石垣に隠れていたものを2、3時間で40~50匹もつかまえたというから驚きだ。よほど印象深かったのか、その形状をはっきりと覚えているのである。

「大きくて真っ赤なハサミを持ったものカニは価値がありました。石と石の間に隠れているので、小枝を使って奥まで入れて逃げられないようにしてかき出すのがコツでした。 弁慶ガニのほかに同じくらいの大きさの全体に細かい毛が生えた茶色のカニもいましたが、これは数が少なかったのでとても貴重でした」

大森さんは当時の子どもたちには遊び方のルールがあったという。一人で遊ぶことはほとんどなかった。まず、何人かの仲間がいたので 「やっていいことと、悪いことが自然にわかるようになった」という。たとえ、喧嘩をしても相手が泣き出せば終わり。泣かせたほうが勝ちで、泣いたほうが負けという明確なルールだった。 大森さんの子ども時代の想い出は数多くあり、枚挙にいとまがないほどである。また、何かの機会に紹介したいものである。

(平成19年 龍田恵子著)