築地史料館:もうひとつの築地魚市場

もうひとつの築地魚市場 築地の町屋は日本橋魚河岸の魚問屋によって開かれたので、魚河岸のあった本小田原町に対して南小田原町と名づけられました。記録によると魚問屋は1664年(寛文四年)に大枚四千両を幕府に上納して、拝領地を賜ったとあります。それから長い年月にどのような経緯があったかは知りえません。海岸部に河岸地がつくられて、魚商が多く住みつくようになり、幕末には魚市場を形成するにいたります。

 万延期の「京橋南築地鉄砲洲絵図」に南小田原町付近に「肴店」とあるのが幕末から大正期まで存在したもうひとつの築地魚市場です。幕府白魚役の下請けをおこなった三河屋松五郎(みかわやまつごろう)が開祖といわれ、天保の改革によって日本橋魚河岸の支配力が弱まったのに乗じて生まれた新興市場でした。築地魚市場は産地に対して、日本橋魚河岸よりも高く魚を仕入れることをうたって活発に荷引きしたので、両者の間に対立が生まれます。これを仲裁したのが名奉行と名高い遠山の金さんで、築地の一部の業者を日本橋魚河岸に加入させて一件落着としました。その後も残った者は商売を続けて、1884年(明治17年)には「築地魚鳥市場」として東京市より正式認可を受けます。大正時代になんとなく廃れるまで、東京湾近郊の魚荷を取引したといいます。