築地史料館:築地の梁山泊

築地の梁山泊 明治維新期の築地は日本の近代化にさきがけて新奇な事物が数多く登場した町でした。西洋文化への窓口としての外国人居留地がつくられるいっぽうで、諸外国に対する防衛の意味から海軍施設がそなえられます。その流れから外交や政治の舞台ともなりました。

 浜離宮内の石室を洋館風に改装した延遼館(えんりょうかん)は、外国人接客所として鹿鳴館(ろくめいかん)が完成するまで迎賓館として使われました。ドイツ皇帝フリードリヒ三世や合衆国18代大統領グラントなどが訪れた際には、ここで明治天皇と謁見したと伝えられます。1889年(明治22年)に取り壊されました。

 本願寺近くの戸川屋敷跡五千坪を買い取り、そこに豪邸をかまえたのが、当時外務次官と大蔵次官を兼任していた大隈(おおくま)重信(しげのぶ)です。大隈は豪胆な性格として知られ、かれを慕ってたくさんの人材があつまりました。伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)、井上(いのうえ)馨(かおる)、渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)、山県(やまがた)有(あり)朋(とも)、五代(ごだい)友(とも)厚(あつ)、前島(まえじま)密(ひそか)ら開明的急進派たち、のちに明治政府の中枢をしめる役人ばかりです。築地の私邸にはそうそうたる顔ぶれが何十人も食客のように居ついては政治談議にふけったといいます。そこで中国の小説『水滸伝(すいこでん)』に出てくる豪傑たちがたてこもった場所に見立てて、大隈屋敷は築地の梁山泊(りょうざんぱく)とよばれました。大隈は梁山泊で若手の急先鋒らとひざをつめ、論議を重ねながら、鉄道、貨幣と度量衡(どりょうこう)、電信、などの新時代の政府施策を手がけていきます。

 築地はあたらしい日本の政治が胎動した場所でもあったのです。