築地史料館:外国人居留地の明暗

外国人居留地の明暗 1858年(安政五年)の日米修好通商条約のねらいのひとつが江戸の開市でした。駐日総領事タウンゼント・ハリスは江戸の貿易でよほど儲けられるともくろんだのでしょう。日本人も築地に居留地ができれば、外国人を中心とした繁華街が形成される、と考え、商売をあてこんだ人もいました。ところがその期待は大きくはずれます。幕府が瓦解し、江戸の六割を占めていた武家地は荒れ放題。仕方なく明治政府は桑茶畑開墾を奨励する始末です。米国が上客として、あてにしていた大名たちはどこかへ消えていました。

 これではいけない、何とか人を集めようと、居留地の隣に新島原という外国人向けの遊郭をつくります。しかしこれも経営不振で一年で廃止となる有様で、外国人はより栄えていた横浜へ行ってしまいます。築地居留地のスタートはまったく期待はずれのものとなりました。

 おいおい居留地に住む外国人は増えていきますが、今度はかれらの不法行為に悩まされます。居留地ではさかんに米の空相場、酒や阿片の密売がおこなわれました。取り締ろうとしても治外法権によってままなりません。そこには外国に対して不当に低い地位に甘んじる日本の立場が現れています。1899年(明治32年)に条約改正となると、やれやれとばかり居留地は廃止となりました。

 国際市場としての繁栄をみることはできませんでしたが、居留地に住んだ外国人のうちには、文化、学問、技術の伝道に尽力した人もたくさんいて、日本の近代化に大きく寄与しました。とくにキリスト教が解禁となり、ミッションスクールや外国語学校、病院などが開かれて文教地区として発展したことは意義深いものでした。