私たちが子供だった頃の築地

北島初枝 / (大正6年生まれ)
荒井和子 / (昭和8年生まれ)
礒野三子 / (昭和9年生まれ)
諏訪喜美子 / (昭和11年生まれ)
楠栄子 / (昭和11年生まれ)

* かつて、築地4丁目10番にある北島商店に北島初枝さんを訪ね、戦前のお話をうかがったことがある。つい昨日のことのように思い出されるが、あれから13年が経った。 北島さんは90歳、相変わらず若々しくお元気な様子で何よりである。 北島商店の前身は有田屋という瀬戸物屋で、北島さんが嫁いで来たのは昭和13年のことだった。 しかし、戦争が始まり、店をたたんで疎開した。4年後に戻ってきたときは、一から商売を始めなければならなかった。 昆布、のしいかに始まり、乾物類を扱うようになって商売の形が整えられていったという。 北島さんよりも15歳以上は下の世代になる荒井さん、礒野さん、諏訪さん、楠さんはまだ子どもだった。 世代はちがうが、座談会は戦前の話をきっかけに和気あいあいと始まった。

私たちが子供だった頃の築地 北島 : 疎開から帰ってきた最初のころは大変でした。夫が病気になったので、実家の父に子守りを頼んで働きました。マルミ屋さんの軒下を3尺借りて、するめや昆布、落花生や飴などを並べて売りました。 仕入れは日暮里まで行きました。昆布などはまだ統制でしたから、よく警察には怒鳴られましたよ。

荒井 : 昔、私たち家族が住んでいた家はいまの石橋商店があるところでした。戦争が激しくなって、弟と2人で縁故疎開しました。 昭和20年の1月か2月に父が一番年をとった兵隊として出征して、母と妹が家を守っていたんです。 それで、私は女学校の試験を受けるので、3月初めに東京の家に帰ってきました。弟が母の実家の神奈川県に疎開。 それで、3月10日よね。築地小学校(文海)で願書を書いていると、大空襲。怖い思いで家に帰りました。 でも、子どもというのは母がいるというだけで、力強く思うものです。逃げるのもいっしょ。

礒野 : 本願寺の近くにも焼夷弾が落ちて、怖かったわね。弟はおんぶされて逃げるときに焼夷弾の破片が頭に当たったんです。 本願寺には大きな防空壕があって、近所の人たちはそこに入ったみたい。うちは、店の下のほうに防空壕を掘っていました。4丁目だけ燃えなかったですね。

私たちが子供だった頃の築地 諏訪 : 昭和17年2月14日にシンガポールが陥落しました。その夜、私は「お父さんが帰って来たよ」と言っている夢を見たの。 格子のところにゲートル巻いて鉄砲持って、私の頭のところに立っていたんです。そのあと、父が帰ってきました。私が7つのときね。 その後、私は福島の母の実家で祖母と二人で疎開していました。

礒野 : 私たちは疎開から始まっていちばん大変な時代を過ごしてきたのよ。私も縁故疎開をして、向こうでずいぶんいじめられたのよ。 都会の子どもだからね。でも、校長先生にかわいがられたし、いじめられると棒を振り回して追っかけたわよ。

荒井 : うちの母は男みたいな人でした。父が兵隊に出たあと、隣組の組長だったんですよ。父の半チョーカーをはいて、 1月、2月は、空襲警報が鳴ると“トンビツル”を持って外に出て、「みなさーん、気をつけて下さいよ」と大声を出して呼びかけていました。

礒野 : 実家のおじいちゃんもそのトンビツルを持って巡回していました。自分は兵隊に行かないから、みんなを守らないと悪いと言ってね。 防空頭巾をかぶって、防火用水が氷ると、常に氷をトンビツルで壊すんですよ。

諏訪 : 駐車場のところに海軍病院があったわね。

荒井 : そうそう。みっちゃんと陸軍病院の兵隊さんを慰問に行ったのよね。

* 戦時中の困難な時期を語ったあとは、さらに遡って子ども時代の話になった。楽しい思い出が甦ってくるのか、興味深い話がポンポンと飛び出す。子どもの目に映った築地、商売、大人たち。

諏訪 : 幼稚園は朝海幼稚園に通ったのよ。

荒井 : 私も朝海幼稚園。和光童園というのが小田原町にあったわね。木村家パンの工場があったところに。みっちゃんは和光童園でしょう?

礒野 : 私、幼稚園はほとんど行かなかったのよ。

荒井 : あら、私も行かなかった。だいたい長女だから、こきつかわれていたのよ。 (笑)妹とはずいぶん差があったわ。親も妹が「何かを買って」といっても「ああ、いいよ」だもの。(笑)

北島 : 次女くらいになると親も気持ちにゆとりが出てきて、「よしよし」になったのですけどね。

礒野 : 築地の4丁目の外に出て遊ぶということはあまりなかったわね。

荒井 : 勝鬨橋を渡って月島へレンゲが摘みたくて行こうとすると、親にだめだぞって言われました。

楠 : 終戦後は3号地へ泳ぎに行きましたね。勝鬨を渡って右へ行くとすぐに倉庫街があって、すぐ海に辿り着くの。

諏訪 : 隅田川でも泳いだっていうものね。

礒野 : 私は門跡橋の前が川だったので、あそこで泳ぎましたよ。お友達の家が向こう側にあったので、いっしょに泳いだことを覚えているわ。

楠 : 男の子たちが橋から飛び込んで、よく泳いでいましたね。

諏訪 : そばに最中のアイスクリームが売っていたのを覚えている。確か、浪花屋といって、いまの「つきじ寿司」のあるところよ。

楠 : がんセンターのところも原っぱになっていたので遊んだわね。終戦後は、魚河岸もまだ活発じゃなかったから、よく遊んだわね。

礒野 : わたしなんか、あの中で運転の練習をしたのよ。

楠 : 小さい頃はお天気であれば、うちで遊ぶよりも外で遊んでいたわね。親も外で遊びなさいと言ってましたしね。それにね、おつかいは子どもの仕事だったですよ。

礒野 : うちには足踏みの小さなオルガンはあったのだけれど、円照寺さんのオルガンは大きかったので、とても弾きたくてね。 それから、子どものころは呼び鈴のある家が珍しくて、イタズラに押してパーッとダッシュして逃げたことがありました。 (笑)ほんとに、よく遊びましたね。あれいけない、これいけないなんて言われたことなかったですもの。戦後になってから、紙芝居が紀文さんの角に来ました。 それから、面白いのは、郵便局の人がバイクで集配にくるでしょう。バイクのガソリンの匂いが好きで追いかけたこともあったわ。

私たちが子供だった頃の築地 荒井 : うちはお麩の製造で、どんどん水を流すから、子どもが入ると邪魔なのよ。父が「製造場に入るんじゃない」と怒るから、みっちゃんのうちに遊びにいくの。 みっちゃんがいなければ大山さんのあーちゃんのところに行くのよ。あーちゃんは一人っ子であまり外に出ないから、うちに上がれって上がれって言われたわ。

礒野 : 大山さんは最初は経木屋さんだったわね。とにかく、ひっくるめて言うと、お父さんもお母さんも、どこの子どもが来ても何も言わないで、そこで遊ぶのが当たり前という時代でしたね。 あとね、戦後すぐかな、うちの3階に間借りしていたおじさんが銀座に露天を出していて、私は英語ができるんだよって言うの。アメリカ人にハウマッチ?と聞かれるから、テンイエと答えるんだってよ。 おじさん、すごい、英語できるんだ、と思いました。(笑)

* 築地で生まれ育った4人の子ども時代の話を聞いていた北島さん。「店が忙しくて、3人の子どもたちは人まかせでした」と言うが、それでも参観日には時間をやりくりして学校へ行った。 日曜日には家族そろって食事に出かけることもあった。

北島 : 戦後は生きるために無我夢中で働きました。

荒井 : 北島さんは、とにかくきれいな人だなという印象でした。でも、あまり外に出られていませんでしたよね。

北島 : 42歳で体の調子が悪くなって、とにかく疲れやすかったのものだから、外に出なかったの。 それがまた、いちばん忙しかったころだったもので、引っ張り出されて働きました。(笑)

荒井 : 私は北島のおじさんの顔もはっきり覚えているのよ。

礒野 : うちは昔、看板屋でした。だから、看板屋のみっちゃんと呼ばれたりしていたわ。

荒井 : 店先でいつも職人さんが看板をつくるのを、半日でも見ていたものね。

礒野 : 菅さんの隣のところを板の間にして、座布団敷いて、職人が看板を彫っていた。 母がそれに金箔の文字を入れるんですよね。看板を彫る親方が終戦になって兵隊から帰ってきてうちでやらせてくれというのでやっていました。

荒井 : うちの母は、「丸井屋のおかみさんや小見山のおかみさんのような立派なおかみさんにならなくてはいけないから」と言って、一生懸命働いていましたね。

礒野 : 大晦日まで商売して、除夜の鐘を聞きながら片付けをして、一日だけお正月をして、2日からまた商売していたものね。

礒野 : お正月といえば、お供えのお餅をかなづちでくずして乾燥しておいて、母が油で揚げていたわね。それがとても楽しみでね。

荒井 : そうそう。揚げて醤油でシャシャシャーってすると、塩味とは違った味で香ばしくておいしいのよ。

諏訪 : ところで、うおがし銘茶の土屋さんのところ、前はどんな店だったのかしら。

礒野 : あそこは栗山さんといって、帽子や吊るしんぼうの洋服を売っている店だったのね。 吊るしんぼうがダメになって、練り物のようなものを売っていた。そのあとに魚屋さん、そして土屋さんが入ったのね。

荒井 : そして、いま藤本商店が入っているところは、近江屋さんという乾物屋さんでしたね。

私たちが子供だった頃の築地 楠 : うちの父は住職でありながら、芸事が好きだった。ほら、まわりには芝居小屋や料亭があったからよく遊びに行っていたわね。 檀家へ行くときも、なよなよして行くもんだから、きょうは小唄のお師匠さんが来たのですか、なんて言われたりしたんですって。だから、母はいろいろと苦労したのよね。

諏訪 : 栄ちゃんのお母さんはおだやかな人でしたね。

礒野 : みんなよく働いたわよ。朝早く来るお客さんには必ずお茶を入れてね。私のおばあさんは通る人にも「お茶飲んでいらっしゃいよ」と言った人だった。 1週間に1度、孫たちのお囃子の練習がある日、そろそろ終わるころを見計らって表に出て、縁台に座ってお菓子を用意して待っているの。 普段はそこを通らない子どもでもおばあちゃんの座る縁台に寄って、ひと遊びするのよね。地面の端から端までチョークで絵を描いたりしてね。 そうすると、隣の菅さんの店に来るお客さんが、「ここにはまだ絵を描く子どもがいるんだね」と感心していたそうですよ。

楠 : 昔はいつも世話を焼いてくれる親切な人がいたものですね。

私たちが子供だった頃の築地 礒野 : 場外市場が大きく変わったのは、小売商になってしまったからなのよね。昔は、大いばりで小売りはやらないよ、商売人でなきゃ売らないよ、なんて言って売っていた。 ところが、どんどん時代が変わってきちゃって。小料理屋さんだって、その辺のスーパーで買ったほうが安いよ、みたいな時代になってしまいました。 でも、この築地で商売をしてきた人たちの「生きのよさ」、そして働き者の女性たちの懐の深さを受け継いでいってほしいと思います。

* 話はどこまでも尽きなかった。みなさんの戦前戦後の思い出は無尽蔵にあった。 まだまだ、聞きたいことは山のようにあるような気がした。いずれまた、お会いしたときにでもうかがいたい。

(平成19年 龍田恵子著)