場外市場の歴史地図を作ろう

永窪友美子

場外市場に勤めて13年がたつ。 その間、多くの人々に、この市場がなぜ生まれ、どのような変遷をたどり、 今日に至っているか、仕事の折々に聞いてきた。 その歴史の有り様を、できるだけわかりやすい形で表現するには、どうしたらよいか? まず、地図を作ることだと思った。

第一期は関東大震災以前。実はこの時代、まだ場外市場は存在しない。 この土地は、本願寺の寺町であった。 第二期は、関東大震災以後~太平洋戦争前。場外市場の創世記である。 第三期は、戦後。これは場外の最も栄えた時期である。 そして第四期、現在。 今、場外は、寿司屋が増え、エリア内にはコンビニ、ファミリーレストラン、 ホテルも建つとのことで、大きな変革の時を迎えている。

この四期の地図を、重ねてみると、市場の歴史が見えてくる。 今回は、まず一期と四期の地図をご覧頂き、 寺町から市場へと変化していった有り様を語ろうと思う。

●土地を築く、だから築地
現在の場外の土地は、その昔、海だった。 江戸時代、明暦の大火という大火事があり、 浅草近くの横山町で「江戸浅草御坊」と呼ばれていた本願寺が消失した折、 築地に移築することとなり、 佃の衆がここを埋め立て、現在の本願寺の場所に、新しい寺を建設した。 当時の本願寺は、隣接する現在の場外のエリアの方向を向いて建てられ、 場外の現中通りは、本願寺の表参道となった。 参道の両脇には、同系列の寺と墓所が並び立ち、寺町の様相を呈した。 つまり、現本願寺と場外の土地全体が、かつては、本願寺エリアであったのだ。

●震災以前の築地:隅田川寄り
「築地物語」というタウン誌がある。 これによると、震災以前、本願寺を挟んで、隅田川寄りの土地には、 江戸の足軽屋敷を彷佛させる長屋が立ち並んでいたようだ。 南小田原町という地名で、これは日本橋魚河岸のあった小田原町に対し、 南に位置することから名付けられたという。

水道も便所も共同のいわゆる「いろは長屋」は、一世帯が四畳半ひと間、 ここに家族全員が寄り添い、かなりの人口密度だったという。 一家の主は人足や日雇いで、主婦は夏になれば「腰まきひとつで、オッパイ出して 平気で歩き回っている」というから、驚きだ。 まさに、長屋暮らしは裸の付き合い、人情味溢れるもので、 いわゆる下町らしい風情に溢れていたようだ。

さらに河口に近い波除神社のあたりには、 漁師たちが住み、小規模ながらも、魚市場の様相を呈していたらしい。

●震災以前の築地:銀座寄り
一方、本願寺を挟んで銀座寄りの土地は、邸宅、待合、病院などが立ち並ぶ閑静な屋敷町であった。 興味深い本が見つかった。「大正の築地っ子」(岸井良衛著 青蛙房)という、 大正時代にこの界隈で少年時代を過ごした戯曲家岸井の回想録だ。

震災以前、彼の家は晴海通り沿い、場外より一区画銀座寄りにあった。 この界隈は、明治維新で上地されるまで、武家屋敷であつた。 「そのためか、築地という町は静かな住宅地というより、むしろ寮のような、 昔の言葉でいえば控え屋、町人の下屋敷のような家が多くあった」と記している。 岸井の父は弁護士で、家族に加えて書生さん、女中さんも抱え、 大所帯で土地百五十坪もある屋敷に暮らしていた。

台所には、印半纏に草履、手拭いという出で立ちの魚屋・肉屋・八百屋が御用聞きに来て、 腰にさした真鍮の矢立てで帳面にその日の注文を記した。 ぼて振りの魚屋は盤台を並べてその場で魚をこしらえ、 天秤棒をかついだ豆腐屋は、鍋を受け取ると、やはりその場で、 盤台の蓋の裏を使い、トントンと、器用に豆腐を刻んで渡した。

●震災前の本願寺
現在の晴海通りは土の道で、本願寺で突き当たり、新宿からの市電の終点であった。 本願寺は門跡さまと呼ばれ、本堂は百畳以上と思われる畳敷きで、 廻り廊下に観音開きの入り口がいくつもあり、 御蝋がともされ、坊さんが黙々とおつとめをしており、 境内は静かで、子供が出入りしてもとりたててとがめられることもなかったようだ。

岸井は、現場外市場のエリアについては、あまり詳しく記していない。 ただ、本願寺の境内に続くエリアは、 「五十七宇の末寺と墓地で、今では墓地は引っ越してしまったが、寺はいくつか残っている」と語り、 この墓地の中には、画家の酒井抱一、義士の間重兵衛、樋口一葉、河東節の十寸見河東の墓があったこと、 また、末寺に地続きの講部屋は木造二階建てで、大谷講、芝畳講、知息講、鉢米講など計三十二講があったことなどを、記している。

●関東大震災
そして、大正十二年九月一日、午前十一時五十八分、関東大震災は起きた。 築地界隈の人々にとっても、地震は驚異であったが、 揺れがおさまると、家を片付けたり、昼食をとり直したり、買物に出かけたり。 問題はその後の火災であつた。 間もなく、火の手があがるという噂は真実となり、 夕刻には、隅田川河岸の貯炭場に火がつき、対岸の石油缶が爆発し、地獄絵となる。 火柱が道を走り、逃げ遅れた人々を容赦なく呑み込んだ。 京橋を通り、皇居の方向に向かう人々、隅田川に筏を繰り出す人々、 どちらにも火の手は迫った。 朝を迎え、生き残った人々の多くは日比谷公園に集い、呆然と立ち尽くしたという。

岸井の家も震災できれいに焼けて門柱しか残らなかった

震災後、日本橋魚河岸が築地に移転するというので、 焼跡には、俄か仕立ての食べ物屋がたくさんできたようだ。 岸井の父の知人も焼跡に小料理屋を出すことになる。 その小料理屋の名は「一新亭」。 岸井の父が当時、流行した「更始一新」という言葉をひねって、名付けた。 天ぷら二十五銭、うどん三十銭、親子丼四十銭と、看板に掲げられた。 店は繁昌した。 岸井の父も、魚市場が来る以上は、庭付きの大きな家は不向きになるであろうと、 事務所と自宅を兼ねて裏通りに家を立て直すと同時に、 表通りに二軒、中間に三軒の家作を建てた。 その一件が、一新亭となる。

関東大震災は、江戸の面影を残す八百八町を、揺さぶり、破壊すると同時に、 江戸から連綿と続いてきた生活様式や慣習を打ち砕いた。 しかし、その復興は、驚くほど早い。 焼け出されたにもかかわらず、皆、いきいきと、未来へ向かい、 歩を進める様子が、ありありと伝わってくる。

●誰が道を作ったのか?
実はこの地は、明暦の大火以降、江戸から明治にかけて7回の大火を経験している。 その都度、本願寺も焼けては再建されたが、関東大震災で、再び丸焼けになった。 間もなく、本願寺本堂は現地再建、墓所は和田堀に移築することとなり、 同時に、場外の土地に並び立っていた多くの寺も、 現地再建、あるいは東京郊外への移築、いづれかを選択することとなった。

時を同じくして、行政が晴海通りを建設し、新大橋通りを拡張する。 関東大震災を契機として実行された帝都復興事業。 内相・後藤新平が12億円の巨費を投じて進めたという事業の目玉は、 幹線道路52、補助道路122の建設であった。 この計画のシンボル的な存在である昭和通りの建設においては、 多くの土地所有者の立ち退きを強制執行したという。 この頃は、お上の力が強く、行政が決めたことは、万難を排しても実現されたという。

「帝都復興区画整理誌」の記述によると、 現在の場外市場の区画は、第二十二地区に分類される。 この地区の、旧本願寺本道から参道へと続く敷地のど真ん中を、晴海通りでぶった切り、 本願寺旧墓地の敷地を削り、新大橋通りを通す。 この2つの大通りの交わる南西の一角、つまり四十余の本願寺子院が立ち並ぶ寺町を、 現在の区画に変える、その図面は、どのような経緯で作られたのだろうか?

場外の包材屋さん、小見山商店の旦那さんが言う。 「死んだおふくろが、言ってた。 随分昔のことで、ほんとだか、わからないが。 震災前、うちの前の通りは、新大橋通りに通じていなかったって。 つきあたりだったってさ」 お母さんは、数年前に、90歳を越えて、すでに亡くなっている。

昭和2年の区画整理原形図と換地位置決定図を重ねてみると、 原形図では確かに、小見山のお母さんが言ったとおり、通りは貫通していない。 通りは一度、塀に突き当たり、曲がって新大橋通りへと通じている。 この通りだけでない。 かつては、今の新大橋通りの中央分離帯のあたりまで、墓地が広がっていたし、 かつて本願寺の参道であった今の中通りの位置は、 8m、銀座寄りににずらして、道幅は狭めている。 震災後、場外の土地全体が、行政によって、区画整理されたことがわかった。 少し謎が解けてきた。

寺町から商業地への変貌、これは自然発生的ではなく、明らかに行政による意図的なものだ。 やがて形成される場外市場の繁栄を予測しての、道路の引き直しだったのだろうか? 当時の行政の執行者も、寺院の住職たちも今はもう亡く、 資料の記述を辿るのみだが、やはりかなりの強制力が働いたことは間違いないと思う。

●市場が生まれる
同時期、日本橋に永く繁栄していた魚河岸は、築地に移転が決まり、 当時、海軍の用地であった土地に新市場が建設される。

場外市場への第一歩目は、誰が標したのだろうか? 今、当時の記憶を語り伝える人々は、すでに亡く、 父母、祖父母から聞き覚えている人々の話を繋ぎあわせ、 パズルのようにはめ込んで、過去の物語を掘り起こしていくしかない。

区画整理誌をひもといてみると、更に想像の翼は広がる。

現在、場外の際である新大橋通り沿いは、 通称“床店”、間口×奥行き三尺というきわめて小さな店が、 ずらりと並んでいる。 震災前、この地区の区画は、現在の新大橋通りのセンターラインから、 現在の床店の敷地までで、床店のうしろに5m道路があった。 その敷地のほとんどは、本願寺の墓所が占めていて、 土地の古老に聞くと、ぐるりと土塀で囲ってあったという。 今も、その塀の土台が、床店の後ろに残っている場所すらあるという噂を聞いた。

市場の人に言わせれば、床店は、関東大震災後、 「佃政の親分さんが、土塀の石を全部、取り除いて作り、人々に貸した」とのこと。 実は佃政は、昭和二年、京橋区からの要請で、人々の生活復興の手助けを目的とする信用組合を作る。 (この組合は後に京橋信用金庫となる) また彼は、本願寺の門徒であり、この区画の墓所に先祖の墓を持っていたはずだ。 墓地の移転は、昭和三年に行われた。 その後、本願寺か行政が、佃政に、土地を売ったのだろうか。 昭和七年の登記簿をみると、床店の所有者が記載されていない。 佃政さんは、昭和九年に亡くなり、その御子息も先年、亡くなられた。 どのような経緯で床店を作り、そこに人が集まってきたのかを、誰に尋ねよう。

そう思いながら、床店の前を歩いていたら、 晴海通りと新大橋通りの交差点にほど近い、 牛丼屋の「大森」さんの頭上に掲げられた看板に目が止まった。 『大正12年創業』ーーまさに震災の年である。 創業したのは、大森の親父さんのお父さんか、お祖父さんか? 今度、当時の話を聞いていないか、尋ねてみようかと思う。

●さらに歴史は繰り返す
ともあれ、この時の流れの中で、築地もまた、 市場の街へと、着々と変化していったのである。

まさに大平洋戦争突入前のささやかな安泰な日々。 場外には様々な商売人が集まり、町は、日に日に市場の様相を呈していく。 店の奥では、家族・使用人ともども暮らし、この小さなエリア内に、 銭湯・床屋・ミルクホール・呉服屋・洋服屋等、人々の暮らしに必要な商いも栄えていく。

そして、大平洋戦争がぼっ発し、人々の暮らしを、再度、根底から覆していく。 戦時中、間引き疎開させられた、と、市場で育った80代の人々が、話す。 空襲による大火を恐れ、建物を強引に壊したと。 今、残る古い家屋は、運良く壊されなかったもので、 空襲による全焼は免れたものの、場外もまた大きく町並みを変えることとなった。 人々は出征し、疎開し、市場への荷はストップし、終戦前後は、火が消えたような寂しさであった。 ところが、終戦と同時に、戦後復興の勢いにのり、場外の最盛期が訪れるのだから、 事実は小説より面白い。

その頃の話はまたの機会に。(2004年3月29日著)