築地を知る | 築地昔話館 | 男たちの語り
つらいときは前進する一歩
越渡一太郎さん(大正12年生・越渡)
「きみは人と話すのが得意で要領もいいから、田舎にいるよりも都会に行ったほうがいいよ」
越渡さんが石川県輪島の小学校6年のときに担任の先生にそう言われた。予想外の言葉にうれしくなった越渡少年は小学校を卒業すると、 知人がいる東京をめざした。昭和13年4月2日のことである。輪島から汽車に乗って上野駅へ。寂しい、心細いなどと考えている暇はなかった。 気持ちは未来に向かっていたのだ。
「当時、田舎の子どもというのは話し下手だったけれど、わたしはものおじしないタイプでした。 先生はそれを知って都会に出ることを勧めてくれたのかもしれません。上野まで12時間、汽車賃が8円50銭だったと思います。 上野駅に知人が迎えに来てくれました。それで、築地場外の店で働くようになりました。でっち奉公です」
12歳といえば、まだ子どもである。しかも、たった一人で東京の厳しい商いの世界に身を置いて、つらいことも多かったであろう。
「そりゃあね、つらいことはたくさんありましたよ。でも、先輩につらいときは前進する一歩だと教わりました。 年配の人の言うことは、はい、はいと聞いて、教育されましたね。だから、どんなことがあってもつらいとは思わなくなりました」
当時、定休日は月にたった1日(毎月22日)しかなかった。その休日には先輩に連れられて浅草に行ったり、盆休みには郷里に帰って墓参りをした。 いまでは考えられないほど働きづくめの厳しい時代だった。
昭和19年、越渡さんもまた戦争に行った。満州、沖縄、台湾から昭和21年2月に帰ってきた。3月には、新橋の闇市などで売れるものなら何でも仕入れ、 築地場外のよその店の軒下で売った。昔の仲間がいっしょに働かせてくれと集まってきた。2年ほどしてから現在の「支店」と呼んでいるところで、 塩鮭をはじめスルメ、昆布など北海道で採れる海産物を販売。そして昭和27年、鰻屋さんのあとの現在地(築地4-13-11)に店を開いた。越渡商店の誕生である。
戦前戦後の築地の思い出、特に印象に残っていることを尋ねた。
「戦前は、やはり統制ですね。主力商品が統制になったので、町内で割り当ての砂糖100gなどを各家庭に配給したことが印象に残っています。 店を始めたころは車が普及していない厳しい時代だったので、毎日、自転車で都内のあちらこちらへ配達に行きましたね。 昭和20年、30年代は遊ぶなんてことより、とにかく働いていたという思い出しかないですね」
また、中央卸売市場と築地場外との交流がスムーズにいかなかった時期もあったが、少しずつ通じ合うようになっていったという。
越渡商店は、昭和35年より「築地市場」の仲買取引を始め、昭和42年には店を建て替えた。そのころはほかの店も順番に建て替えを始めた。
越渡さんは平成14年より、東京魚市場買参協同組合理事長をつとめ、平成15年には、築地市場における貢献で勲六等単光旭日章を受章した。
平成16年、長男が社長に就任した後も、会長の越渡さんは毎朝、自宅のある越谷から車に乗って午前4時には店に入る。82歳、生涯現役である。 いつも元気いっぱい、大きな笑い声が店に響き渡る。
「お客さんにはうちの食材をどうやって食べたらいいのか、安上がりになるのかということを伝えていますよ」
この取材中、共栄会の和田久の社長が事務所にやってきた。「和田さんのお父さんにはゴルフを教わったんですよ」という越渡さん、和田さん父子とは長いつきあいだ。 築地で商売をする人たちのつながりは広く、そして深い。
12歳だった少年が夢を抱いて輪島から築地にやってきて、「つらいときは前進する一歩」という言葉を肝に銘じながら、越渡商店を一代で築き上げた力強さは築地の中で育まれたものである。
(平成17年 龍田恵子著)