築地を知る | 築地昔話館 | 男たちの語り
地域再開発の先駆けとなる
礒野義夫さん(昭和13年生・いし辰)
築地4丁目交差点に位置する共栄会ビルの地下にある「味のいし辰」の社長・礒野さんは、昭和58年に中央区議会選挙に当選して以来、5期を勤め上げた。 その議員生活は中央区の再開発とともにあった。
礒野さんはもちろん築地で生まれ育った。終戦直後、母は「牛どん大森」(築地4-8-7)の大森さんの母といっしょに汁粉などの甘味ものから雑煮やご飯ものまでメニューをいろいろ揃えて売った。 そして、共栄会ビルに「味のいし辰」が出店したのは昭和30年の終わりだった。
現在の共栄会ビルは 昭和63年に新しく建て替えられたもので、地下1階から地上2階まで34店舗が営業しているが、そもそも共栄会は戦前にあった同所の林医院の建物を買い取ったことに始まる。 林医院が撤退した後の建物には、最初に3店舗が、その後、漬物店、菓子店、飲食店など30数店舗が営業。2階は事務所、住居、倉庫などで構成された。 共栄商業協同組合のスタートだった。しかし、木造の病院造りは使い勝手の悪さなどから、建て直し計画が立てられ、中央区行政と民間とが取り組んだ中央区内再開発一号がこの共栄会ビルなのである。 「計画から10数年の経過は、運悪くバブル景気突入の時期と重なり、テレビ報道のターゲットになりました。 破格な立ち退き料問題はなんとか解決しましたが、全店舗の仮店舗確保の大きな問題が立ちはだかり、それから行政との交渉と研究が進み、 当時の横関区長の決断で築地川の埋め立て地を用地として確保することになり、プレハブを作ってそこで2年ほど商売をしていました。 ビル建設が進められ、地下1階、地上2階を店舗、3階以上を事務所として現在に至っています」 築地川埋立地の利用は、築地場外市場の再整備のなかで大きな役割を果たす貴重な事業だったのである。
いまでこそ、地域再開発は全国的傾向となったが、この地域においてはすでに40数年前に場外市場全体の再開発構想が練られていたのだ。 「商店街全体の構成を図面におとし、立体模型作り、この地域全体の地下を顧客の利便を考慮して、駐車場、荷揃き場、上階の住宅などを取り入れ、 中央卸売市場以上の効率と機能をもたせる考えでしたが、行政側もその当時は絵空事と思ったのだろうか、協力がありませんでした。 それと地域の複雑な不動産権利問題が大きな障壁となりましたが、この某大な構想が現在では、官民一体で研究、推進する段階に入ってきたことは、大きな希望です」
そう語る礒野さんに懐かしい少年時代の思い出をうかがうと、最初に野球の話が飛び出した。 「築地に少年野球チームGクラブというのがありました。これは総領の甚六の小学5年から中学生の少年たちが集まってできたからGクラブ。 当時、中央卸売市場内にあった軍のランドリーの前で野球の練習したり、あと月島にも行きましたね」 そして、当時の子どもたちはみんな近所のおじさん、おばさんにとてもかわいがられた。銭湯に行けばお年寄りと子どもたちの交流もあったという。 「昔は職住一体の地域で、鍵もかけないで出かけられるような時代でした。貸したり、借りたりが当たりまえ。 戦後になってから職住別々という商店が増えましたが、築地には地域コミュニケーションがあり、情の通じ合う街でした」
人情はいまも残っている。先輩、後輩、そして同級生たちとの深いつきあいは、そのまま子どもたちの代へとつながっていった。 だからこそ、いまも強い絆で結ばれているへちま会や寅年生まれの虎の子会が存続しているのだろう。 現在、「味のいし辰」の若旦那として腕をふるっていた礒野さんの長男の忠さんも中央区議会議員として活躍中である。 「いまの築地場外市場の市場性は、飲食店主流の方向へと変化が激しいですが、築地のブランドのイメージを損なわずに、 振興組合、共栄会、海幸会、4丁目町会、6丁目南町会でなんとか力を合わせて活性化をめざしてほしい。人情と真心の地域として、先人の後に続いてほしいと願うばかりです」 最後に礒野さんはそう結んだ。
(平成18年 龍田恵子著)