築地を知る | 築地昔話館 | 女たちの語り
元気にお茶を入れる看板娘
戸張ふじのさん(明治45年生・河内園)
新大橋通りの共栄会ビルの一階にあるお茶の「河内園」は、 昭和二十四年の創業である。 店主の戸張幸次郎さんとその家族がフル稼働、 アットホームな雰囲気に包まれている。 そして店頭でお茶を入れ、やって来るお客さんにサービスするのは 幸次郎さんのお姉さんの戸張ふじのさん、八十二歳である。
その姿はとても印象的で、築地にやって来る人はその印象的なふじのさんの姿に 「ああ、今日も元気にお茶を入れている」とほっとする。 朝の六時から閉店の三時まで、やって来るお客さんの九十八パーセントにサービスし ている。 「おばあちゃんの入れてくれるお茶が飲みたくて」という常連客が圧倒的に多い。 「東京のお茶屋さんにもおばあさんたちは多いと思いますが、 八十二歳の現役で毎日二、三百人にお茶を入れるという芸当はちょっとできない」 と幸次郎さんが太鼓判を押す。 仕事や買い物の合間、入れたてのおいしいお茶を飲むお客さんの顔がほころぶ。 ほんのわずかな時間に交わす会話には、 商売を抜きにしたコミュニケーションが生まれてくる。 「それがとてもうれしいですね。みなさん、うちで飲むお茶よりここで飲むお茶のほ うがおいしいっていうんですよ。不思議ですね」 ふじのさんに「飲んでみてくださいよ」とすすめられてお茶をいただいたが、 やはり百グラム八百円のお茶はおいしかった。
創業当時のご苦労をうかがった。 「新参者で土地に馴れていないから、とにかく一生懸命でした。 箕輪の家からお弁当を風呂敷に包み、青山から都電に乗り換えてここに来るんで すけど、そのころはまだ経済警察がやかましかったから 『おばさん、その包みはなんだ』と呼び止められたことがありました。 包みの中は御飯なんですけれど、きっとヤミ物資だと思ったのでしょうね」 看板を掲げた以上は、なんとかして一人前の店にしなくてはと思った。 三年くらいはいつ寝たのかわからないうちに過ぎていったという。 「それこそ最初のころは、戸板にお茶箱を並べて売ったような格好でしたからね。 二人で寝言をいいながら寝たもんですよ。 苦労はいろいろあるけど、若いときの苦労はなつかしいですよ。 いまの苦労はたいへんだ」 幸次郎さんが笑う。
ところで「河内園」という店名の由来である。 砂町にある戸張家の寺の墓石に「河内忠兵衛」という名前が彫ってあったことから、 「河内園」と名付けたのだそうだ。 当時は河岸の人、買い出し人が多かったが、最近はロコミで一般客にも広がり、 客層が変わった。 「でもね、お客さんの層が変わっても初めてという感じがしないのね。それこそ北海 道とか遠くに引っ越していった人でも『おばさん、なつかしくてまた来ましたよ』 と言って、買いに来てくださることが多いんですよ」 お客さんの中には、 「ここのおばあちゃんのお茶を飲むと試験に合格するよ」と縁起をかつぐ人もいる。 ふじのさんがいつものようにそこにいないと、「河内園」ではないといっても、 決していい過ぎではないのだろう。 「地下鉄に広告を出していたこともあるんですけど、広告に高いお金をかけるくらい ならその分、お客さんにサービスしたほうがいいと思うんですよね」 と幸次郎さんがいえば、ふじのさんも 「最近はお茶の包装がよくなってきましたけど、うちあたりは一番安い包装を使って いるんじゃないかしら。 中身をよくして外側にはあまりお金をかけない方法ですよ」とつけ加えた。
現在、百グラムの値段を表示して売る店が多いが、「河内園」では四百グラムの値段 を表示している。 これは百匁目=三七五グラムで売っていたときのなごりでもある。 「築地はごちゃごちゃしていて、とても楽しいところです。この年になるまで健康で 働いていられるというのは幸せなことです。みんなに支えられているから、こうし てやっていられるんですよ」 昭和六十三年に共栄会ビルが建った。 並んでいた床店はそのままビルに収まり、すっかり趣は変わってしまった。 しかし、昔と変わらないやさしい笑顔で、おいしいお茶を入れるふじのさんの姿が そこにはある。
(平成6年 龍田恵子著)