築地を知る | 築地昔話館 | 女たちの語り
思い出のペンダントを胸に、90歳で店に立つ
中村ハツさん(大正5年生・菊屋中村)
佃煮、惣菜、煮豆など扱っている「菊屋中村」の店先では、いつもスタッフの元気な声が飛び交っていて活気がある。 そして、店の奥の方では、お茶を入れる中村ハツさんの溌溂とした姿がある。90歳のいまも毎日、電車を乗り継いで店へ。 「うちにいたらボケちゃうから、お店に出ているのよ」というハツさんの声と口調は実に若々しい。
ハツさんは千葉県で生まれた。関東大震災のときは小学1年で、当時の様子は鮮明に覚えているという。
「2学期が始まった日で、学校から帰ってきたら地震があったのよ。すぐ外に逃げたけれど、 家が埋まってなかに入れる状態ではなくて、避難したの。避難場所の浜離宮には津波がくるというので、 芝公園へ行って野宿したのよ。翌日、親戚が迎えに来て、杉並にあった母の実家へ行きました。 戦時中は2回、空襲にあったけれど、どうにかこうして生き延びているのよ」
ハツさんが90年の人生を振り返ってまず思い出深いのが、15歳のときに香川県出身の政治家のお宅に住み込みのお手伝いさんとして入り、10年間を勤め上げたことである。
「親戚からの話で、対馬寿一さんという政治家のお宅でお手伝いさんを探しているというので、わたしは15歳で入ったのよ。 ご夫婦にはよくしていただきました。ご主人の対馬さんはとんとん拍子で出世した人で大蔵次官のとき、 2・26事件で暗殺された大蔵大臣の高橋是清さんといっしょに撮った写真もありました。 ご主人が外国に行ったときに買ってくださったおみやげのカメオのペンダントは、お守りがわりにいつも下げているのよ」
そういってハツさんは首にかけたペンダントを見せてくれた。それは70数年という長い年月、ハツさんを守ってきた宝物なのである。
ハツさんは対馬家を出て、杉並区の公設市場にあった肉屋さんに嫁いだ。
「夫とお義父さんが市場の中で店をやっていたのよ。戦時中は2度の空襲にあって、夫の実家に避難したりで、命からがら生きのびることができたの。 戦災に遭ってから最後の召集で夫は兵隊に行ったけれど、40日で帰ってきました。終戦直後に夫がニチロ漁業の人と知り合って、築地に入ることになったわけ。 最初はニチロの直売店としてやっていて、だんだん模様替えしていまの形になりました」
「菊屋中村」は築地で50年。ハツさんの夫は28年前に亡くなり、現在は末っ子の中村幸男さんが社長である。 ハツさんの元気な姿に象徴されるように、スタッフ全員が熱い接客で好感度抜群である。
「わたし自身、特に病気もしなかったし、つらいことはなかったですよ。いまは休みがあるから、昔に比べたらずっと楽なのよ。昔は正月の2日間と2の日しか休みがなかった。 大晦日なんて、除夜の鐘を聞いてから下高井戸の家に帰ったもんよ。たいへんだったのは、新円の切り替えのときだったかしら。
新大橋通りの店ではハツさんが最年長だという。敬老大会にときには自慢の歌を披露する。ふだんでもみんなといっしょにカラオケにも行く。
「毎日、4本ずつお線香をあげています。夫とお世話になった対馬さんご夫婦、亡くなった息子の分。4人に守られているから、いまのわたしがあるのよ」
ハツさんに写真を撮らせてほしいと頼むと、店先でちょっとおすましのポーズをとってくれたのだった。
(平成18年 龍田恵子著)