築地を知る | 築地昔話館 | 寄稿
小見山商店からみる町の移り変わり
法政大学工学部建築学科3学年
大貫政一・北島龍・永野尚吾・西村弘代・福田綾
2004年10月著
◇ はじめに ◇
私達5名は法政大学工学部建築学科3学年に所属している学生です。今回都市史演習という授業の一環として、平成16年5月から平成16年7月までの2ヶ月に渡り築地を調べました。この都市史演習という授業の意義は、
【建築とは、それのみで成立しているのではなく、必ず街、土地と関わって存在している】
という視点に立って、改めて建築、そしてその街を見直し新しい発見を摸索する、ということにあります。そのために東京都内で特徴のある街をいくつか選んで実際に下調べをしてみました。最終的に築地を選んだ理由としては、いろいろな街を歩き回った中でも築地の建物と町のたたずまいとそこを行きかう人々の活気に惹かれたこと。そしてなにより私達の調査の主旨を理解してくださり、力になってくださった築地場外市場商店街振興組合会長の芳賀さん、そして調査させていただいたお店のご主人・小見山さんとの出会いでした。今回こうして私達の調査した結果について報告させていただける機会を作っていただけたことを心より感謝致します。
◇ 調査目的 ◇
「建築」というと有名な建築家が建てた一部の建築物を想像したり、建築を評価する際にも周りから切り取って見られる場合が今までは多くありました。しかし、建築はそれのみでは存在できません。必ずその建築の属している街、土地と関わって存在しているのです。どんなにそれ単体として評価される建築物でも、どんなに有名な建築家が建てた建築物でも、周りの環境を忘れて建てられた建築物は街に取り返しのつかない歪みを生み出してしまうのです。逆に土地のことを考えて建てられた建築はその街をよりいい方向へ導いていく指針にもなる可能性を秘めています。
その意味で建築を学んでいる身として、一つの土地とそこに現在ある建築物を調査することから、ただ壊して建てなおすような土地を意識しないで建築を考えることの危険性を改めて認識すること。そしてまた、建築の視点から街を見直すことで今まで見えてこなかったその街の一面を見つけ出し、街の発展に少しでも貢献できれば、という思い。これが調査をした大きな目的です。
◇ 築地の歴史 ◇
<築地の歴史を調べるにあたって>
築地の歴史的な背景を模索するために古地図を見ていてわかったことは、現在の築地は江戸時代、築地本願寺を中心に本願寺派の寺が集まり寺町を形成していた土地であった、ということでした。確かにそう言う目でみてみると、寺が今でも賑やかな商店の間に点々とあります。しかし、一方では別の疑問が湧いてきます。なぜ寺町は解体したのか。そして、そこがなぜ市場へと発展していったのか。寺と市場という一見全く結びつかない土地の使用法の変化に興味を惹かれ、私達は調べ始めました。
<寺町の形成>
慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開き政治の中心が関西地域から江戸に移りました。そのため西本願寺<注1>もこの地に支院を設置することにしたため、元和3年(1617年)、浅草御堂と呼ばれる築地本願寺の前身である御堂が浅草横山町に創建されました。境内には末寺18ヶ寺、その下寺10ヶ寺の計28ヶ寺の西本願寺派の地中子院<注2>がありました。
しかし、明暦3年(1657年)に起こった明暦の大火により、浅草御堂を含む江戸の町全体が大きな被害を受けました。そこで幕府は江戸の町の建て直しを行うにあたって、以前から抱えていた土地不足を解消するため八丁堀の湿地帯を新たな土地として開拓することにしました。そして大火の被害を受けた西本願寺派のお寺を改めて建立するためにこの土地を与えたのです。これを受けて、西本願寺派の門徒である佃島<注3>の人々は湿地帯の埋め立て工事に尽力し、今の築地と呼ばれている土地が出来上がりました。まさに築地という地名はこのことに由来しています。
またこのときの働きにより、佃島の人々はそれまで直接の門徒を持たなかった築地本願寺から唯一の直属の門徒として認められました。大火の翌年には築地本願寺の仮御堂がいち早く完成し、埋め立てが進むにつれて浅草御堂境内にあった地中子院、他の土地からの移転や新規開創の寺を合わせた計58ヶ寺が築地本願寺の周りに集まってきました。このようにして寺町は形成されたのです。
<寺町の生活>
築地本願寺はもともとは南東向き、つまり寺町に正面を向けていました。南東と北東には大きな運河、そして北西にも小さい運河が走っていて、南側の寺町への入り口にはきちんと門が構えられていました。南西には塀が建てられ、さらに内部も本願寺と寺町の間が塀で仕切られていました。その周りを武家屋敷、庶民主に漁師の家がとりまいていました。つまり、運河によって宗教の空間と武家屋敷、庶民の住まいの空間とがうまく分けられていたのです。
その中で寺町の生活とはどのようなものだったのでしょうか。これに関する資料などは乏しく実態はつかみ難いのが現実です。しかし、本願寺派の教えからしても庶民のために開かれている仏教なので、本願寺を筆頭に寺町を訪れる門徒は多く、普段から賑わっていたようです。また参道沿いには桜の木が植えられていたそうです。
それにしても1500平米ほどの広さの敷地に58ヶ寺集まっていたのですから、寺同士かなり近接した状態で建っていました。比較的広い敷地を有していた寺の中には、家の無い門徒をお手伝いとして居候させていた寺も多くありました。その場合、彼らは同じ敷地内に長屋のような形で家を構えていました。このことは、後で説明するように今の築地を見る上で重要な意味を持ってくることとなります。しかし、狭い敷地のなかにあっても、本願寺に向かって表参道、その両脇にある二つの参道、そしてそれらを横に繋ぐ道が整備されており、今に伝わる町の骨格は、当初からきちんと作られていました。
寺の敷地も実に明快に規則正しく分割されていて、その中で蜆売りが来たり、近所で味噌の交換をするなどして生活が営まれていました。またそのような中で、寺同士が婚姻関係を結ぶことも多かったようです。お彼岸の際には多くの墓参り客に加え、築地小学校裏通りには子供のための縁日もでるなどして賑わい、お盆には本願寺境内で盆踊りが催され佃島の門徒が踊るなど、行事のたびに寺町全体が賑わいました。
<寺町から商店街へ>
明治にはいると政府により、寺町の表門と堀を隔てた向かいに位置する松平越中守の下屋敷跡地が、海軍基地として使用されるようになりました。一方、明治になってから敷設された市電を利用する参拝者にとって正面が今までの寺町に向いた方向では不便なため、本願寺は明治26年(1893年)に一度焼失してしまったのを機に駅の方向である南を正面として再建されました。これにより、≪寺町の中の参道を通り本願寺にいき、参拝し、自分のお世話になっているお寺に挨拶に伺う≫という一連の本願寺を中心としてまとまっていた空間に少なからず変化がもたらされたことは想像に難くないと思います。
そして大正12年(1923年)9月に関東大震災が起こりました。この震災こそが築地の形を最も大きく変えることとなる出来事でした。震災により日本橋が大打撃を受けたことで江戸から続いてきた日本橋魚市場が崩れ、大正12年12月に東京市は海軍省から築地海軍基地の一部分を借り、仮市場という形ではありましたが市場が移転してきました。もちろん震災により築地も築地本願寺本堂、寺町全体がほぼ全壊というとても大きな被害を受けました。これにより、築地本願寺は正面を今の方向に向ける形で再建され、寺町との空間的なつながりは断ち切られてしまいました。
仮市場が移転してきたことに伴い、リヤカーをひいた商売人が寺町周辺を訪れるようになりました。また、戸々の寺は、なんとか境内を再建しましたが、そのため金銭的に苦しい、ということもあって土地の一部をリヤカーをひいた商売人に土地を貸していたところも多かったようです。<注4> その一例として、小見山商店の土地のように、震災前はお手伝いさんのための家があった土地を商売人に貸すケースや、円正寺<注5>のように、寺の一部を貸すケースがありました。この寺と商店が結びついた形式は決して他の土地では生まれ得ない築地特有のもので、非常に特徴的です。円正寺と同じ形式は称揚寺でも見られ、また昭和41年の地図では他にもう一ヶ所確認できます。これ以外の土地の貸し借りについては今回の調査では調べきれませんでしたが、この二つのケースは寺と商店の土地の移り変わりを知る上で大事な手がかりとなったと思います。
しかし、再建した寺町もそう長くは続きませんでした。震災により崩壊した東京を立て直すために大正13年(1924年)から昭和5年(1930年)にかけて実施された帝都復興事業の一環で、寺町の中に今の晴海通りにあたる大きな道路が通ることとなったのです。これによりいくつかの寺は移転を余儀なくされたこと、また本山が「人口の郊外分散に対処する」という教線拡大のために地中子院の郊外移転を奨励したこともあり、多くの寺が移転し、昭和10年(1935年)頃までには58ヶ寺あった寺も6ヶ寺ほどに減ってしまいました。寺は東京各地で誘致されたり、土地を見つけられた寺が仲間を呼び寄せるなどして移転していったようです。前者の例が烏山<注6>の寺町であり、築地から移転した5ヶ寺を含む26ヶ寺で構成されています。そして後者の例が仙川<注7>に土地を得た西照寺の呼びかけに応じた安養寺を含む6ヶ寺の移転です。この他に蒲田<注8>、松原<注9>など各地に移転して行きました。
これと時を同じくして昭和10年(1935年)、築地にあった仮市場は正式に東京中央卸売市場築地市場となりました。これに伴い前から土地を借りて営業していた商店に加え、寺が移転していった跡地に、市場では手に入らない乾物(鰹節、海苔、昆布、缶詰など)や市場に買い付けに来る料亭の人のための備品(お箸、お鍋などの金物)、市場で働く人のための服や長靴などを売る店が並び、七割ほどが業者向けという形で場外の商店街が発展しました。このように、築地における寺町から市場、商店街への移行には、≪市場が移転してきたことで商売人が集まるようになり、当初寺の敷地を借りる形で商売をしていた人々も、後の寺の移転に伴い土地を買い取り、さらに店舗が増えていき商店街が成立した≫という背景があったことがわかってきました。
<戦後の商店街>
昭和に入ると第二次世界大戦が勃発し、それによる影響を避けることは当然できませんでした。戦争で受けた被害はかなり大きなもので、店をたたんで疎開する人が後を絶たなかったようです。しかし、築地はアメリカ人の行く病院となっていた聖路加病院が近くにあることも影響してか、空襲によって全ての商店がなくなり焼け野原になるようなことはありませんでした。
戦時中は、一度は閑散とした商店街でしたが、疎開していた人が築地に戻ってきたり、戦後の混乱の中で、新たに商売を始めるために加わった新しい店もありました。戦後、築地市場はアメリカ軍に撤収されたため、市場内にあった店は追い出される形で商店街へと移ってきました。結局、市場はすぐに返還されたのですが、この結果鮮魚を扱う店が商店街にもできるようになり、今のような鮮魚を広く扱う商店街が形成されました。その結果、戦前の商店街とはまた異なり場外市場とも呼ばれるような、より活気あふれる商店街へと変化を遂げたのです。
戦後の復興、そして昭和39年(1964年)の東京オリンピックのための都市整備などで周囲の環境も変化していきました。今日のように水路が埋め立てられ高速道路ができたり、地下鉄が開通したり、上下水道が整備されたのもこの頃です。戦前は三階建てが禁止されていたこともあり、二階建ての店舗併用住宅が大半を占めていて、お店の人々はこの土地で生活をしていました。店によっては店子を同じ家に住まわせている所もありました。また、商店の壁に銀幕を張ってスクリーンを仮設し、映画を楽しんだりもしたそうです。
しかし、経済成長が進むに従い交通手段が整ったこともあって、店子は築地以外で自分の家を持つようになり、店で扱うものも時代を反映したものが並ぶようになっていきました。建物自体も高いビルやマンションが建てられるようになり、店を営む人も他の土地に住み、店に通って商売をするようになりました。そして現在では、場外市場に住んでいる人は、全四百店舗中、数える程度しかいません。
また、お客の層も昔の業者中心から、一般の人や観光客が増えてきているといった変化があり、それによって町の性格も少しずつ変化してきているような気がします。相変わらず高いビルが建設される中で、寿司という新たな築地の顔を感じながら、昔ながらの商店のたたずまいや商品を楽しみ、魚を見て歩く。そしてなにより、ここでしか感じることのできない活気、空気、そんなものを期待して、人々はこの築地場外市場商店街に足を向けるのだと思いました。この場外市場の土地は、明暦の大火、関東大震災、そして戦争、という東京に起きた大事件節目のたびに姿を大きく変えていて、まさに東京とそこに住む人達と共に変化して、これからも変化し続けていく町なのだと実感しました。
◇ 小見山商店について ◇
<小見山商店を調べるにあたって>
小見山商店の今の状態をできる限り詳しく実測および聞き取り調査し、図面や模型といった形にして残すことで、一つの時代の重要な資料を作成すること。かつ移転した寺を訪ね聞き取り調査し、その歴史を重ね合わせること。そこから小見山商店、ひいては築地について考えてみようと思います。
<小見山商店と周辺の様子>
小見山商店は、築地場外市場商店街に位置しています。ここは築地本願寺と築地市場に挟まれていて、様々な種類の商店が所狭しと軒を連ねているとても活気にあふれた場所です。築地市場にあわせて発展してきた商店街は、開店時刻も市場に合わせた時間設定で朝4~5時に開店し 14~15時には閉店する店が今も多く残っています。小見山商店もそうした店の一つです。 日中はとても賑やかで人がひしめき合っている場所なので、目の前のお店に夢中になっていて、建物を改めてよく見る人はあまりいないかもしれません。しかし、閉店すぎに出かけてみると、昼間気づかなかったのが不思議なほど今度は建物が目に入ってきます。なかでも晴海通りと平行に走る、円正寺に沿った細い道はとても興味深い道です。そんな中にこの小見山商店は位置しています。
<小見山商店の詳細>
小見山商店は築約80年、木造三階建ての建物です。経木、箸を中心とした商店で、今は二代目が会長さん、三代目が社長さんとして店を経営していらっしゃいます。小見山商店の建物は長屋と呼ばれるものです。長屋は昔からある庶民の家の形式として知られていますが、大正時代、特に関東大震災後には二階建ての独立性の強い長屋が建てられました。こうした中できたのが小見山商店です。小見山商店は隣り合う店と外壁、屋根が統一されています。その外壁は木造の木組みの上からブリキ板を張ったもので、全体的にレンガの形に装飾してあり、角には日本近代擬洋風建築にも見られるコーナーストーンが模された西洋風のデザインになっています。しかし、間口は実測では5100mm、つまり約三間という日本従来の尺度が用いられています。
こうした正面を意識的に装飾する技法は商店建築によく見られ、後に看板建築と呼ばれる様式も登場することになります。西洋に憧れを持っていた当時の人々にとって、商店の正面を西洋風にすることは重要なことでした。ただ、裏は木造の日本商家そのもので、後にトタンが張られ今に至っています。家の内部は細部にまで非常にこだわっていて、特に二階は主な居住空間だったため丁寧な細工がほどこされていました。紅葉の一本木を使っていたり、竹を小さいときから矯正したもの、杉の網代といったものを天井に用いています。また、長押、廻縁、竿縁としてとてもいい部材を使っています。居間には神棚のあとも見受けられます。また、三階の天井は円弧を描いています。少しでも空間を広く感じさせるための工夫だそうです。
<小見山商店の変遷>
小見山商店は大正14年(1925年)頃、今の家の基となる建物が建てられました。当初は二つの居住空間に分かれていて、一方には初代店主の家族が、もう一方にはその店主の弟が一人で住むという形で使われていて、一階の一部が店舗となっていました。大正15年(1926年)には、店舗拡大のため弟に他の土地に移ってもらい、二つの居住空間に仕切っていた壁を壊して空間をつなげました。一階がまるまる店舗になり、二階は居間と子供部屋に分かれていました。そして本来建ててはいけない三階を屋根裏部屋に見せかけるようにしながら増築し、そこに店子たちを住まわせていました。
各図面は、このテキストの巻末に、掲載しておりますので、ご覧下さい
昭和16年(1941年)頃には三階にあった物干し部屋を無くし、窓を張り出させ、部屋をつなげて成長した子供のための部屋として使用していました。この子供部屋の天井は狭い中で少しでも広く感じさせるために、丸く円弧を描いたデザインになっています。また、このことより戦前にはもう店子と同居する生活形式が無くなっていたことがわかります。バブルの時代に入り住宅を他の地域に新たに建てたため、この築地の店舗は家として使われなくなり、いまでは二、三階は商品置き場となっています。
この間、商品も変化を遂げました。始めは箸、経木といったものでしたが、戦後には石油商品が出回ったことで、タッパー、ビニール商品、使い捨て用の弁当箱が加わり、今では観光客が気軽にお土産にできるようなコースターのような商品も並んでいます。
<小見山商店の土地の変遷>
小見山商店の土地にかつて建っていた寺は安養寺といい、今は仙川に移転しています。安養寺は京都の西本願寺が関東に西本願寺派を広げようと初期に派遣された寺で、関東の寺の中でも重要な意味を持っています。そのことは寺町において表参道と交差している道の角地に位置していたことからも読み取れます。先ほども述べたように、晴海通り以外の道は寺町から受け継がれたものですが、この土地の重要性は使用方法が寺町から商店街に変わっても全く色褪せず、今でも築地場外市場商店街の中でも人がよく集まる場所になっています。
その安養寺の方から見せていただいた寺町の図面や伺った話を今の図面と合わせて見てみると、お手伝いが住んでいた寺の敷地内の土地と小見山商店の土地が一致していることがわかりました。お手伝いは寺が家、職のない門徒を助ける形で始まったそうです。そのため家を寺の敷地内に建てる必要があり、図のような位置関係になりました。しかし震災によって家は崩壊し、お手伝い達は他の場所に家を求めたため寺を再建した後も空き地のままその土地は残っていました。
震災後に小見山商店が商売するにあたって寺はその空き地を貸し出し、大正14年(1925年)に家を建てて商売を始めました。そして安養寺が仙川に移転する昭和3年(1928年)までの間、安養寺と小見山商店は同じ敷地内にあったこともわかりました。寺の移転後、土地を正式に買い取り小見山商店は今に至ります。残りの安養寺の敷地には、同じように初期から店を構えていたところもありましたが、安養寺の本堂があった敷地は空き地のまま残り、子供達のよい遊び場になっていたそうです。昭和13~15年(1938~1940年)頃にその空き地に今の長屋が建ち、今の状態になりました。
◇ 今後に向けて ◇
小見山商店の向かいには今、地下1階、地上10階のホテル兼商業施設が建設中です。私達が築地に通い始めた頃はまだ工事が進んでいなかったこともあってかさほど気にならなかったのですが、今ではかなり工事も進み、小見山商店のあたりに行くとビルの威圧感を覚えます。確かに高いビルは最近になり場外市場にも見られるようになってきましたが、それは端の方、方向で言うと南東側に比較的固まっていました。しかし小見山商店のある道は場外市場の中でも低層の建物の並ぶ、いわば場外市場の面白さが味わえる道のひとつです。そんなところにまで今回高層ビルが建つことになってしまいました。
また一方で、東京中央卸売市場築地市場は東京都議会で可決された<注10>ことで10年後の豊洲への移転が決定的となりました。築地場外市場商店街振興組合では、10年後、築地市場のない中でどのようにしてこの商店街を維持していくか、より発展させていくにはどうすればよいのかを考えていらっしゃると伺いました。
場外市場の土地は、今まで本願寺、築地市場といった周りの影響をとても大きく受けてきました。その意味でも、市場が移転した後その跡地に何ができるのか。それこそが今後の築地の方向性、そして存続に関する鍵を握っていると思います。壊して新しいものをつくることは明快で簡単かも知れません。しかし、それにより今まで培ってきたものがなくなってしまうことの虚しさは、ここ数年東京のいたるところで十分味わってきたと思います。
例えば、築地市場が移転した後には、この土地を維持するために経済性ばかりに目を向けるのではない、町のことを考えた土地の貸し借りが行われ、新しい建物を建てる際には町全体で話し合いをもてるような、そんな努力が必要なのかもしれません。いかに今あるものを生かした町をつくっていくか、このことをより多くの方々に理解して参加していただければと思います。
◇ おわりに ◇
私達は約2ヶ月をかけて小見山商店を軸として築地を見てきました。この調査は、今回初めて築地を訪れたメンバーの方が多いという状況の中で、築地について全く何も知らない、わからない状況から手探りで始めた調査でした。この短期間でわかったことは、それほど多くはないと思います。しかし、建築を通して築地を見てきたことに大きな意義を感じています。私達にとっても初めての体験でしたし、拙い部分は往々にしてあるとは思いますが、このことを少しでも築地の今後に役立てていただけるならば、大変光栄に思います。
今回調査にあたってご協力いただいた、小見山商店会長の小見山順一郎さんをはじめとする小見山商店の方々、築地場外市場商店街振興組合事務長の芳賀稔さんをはじめとする築地場外市場のお店の方々、そして安養寺さん、西照寺さん、円正寺さん、常栄寺さん、正法寺さんをはじめとする仙川、築地、烏山、松原のお寺の方々に厚く御礼申し上げます。また、私達の調査した結果に興味を持ち、評価してくださった築地場外市場振興組合理事長の北島俊英さん、場外市場で働いていらっしゃる佐藤友美子さんに心から感謝いたします。
最後になりましたが、このような授業の機会を与えてくださり、私達の調査を指導してくださった陣内、高村両先生方に深く感謝いたします。
小見山商店の実測と図面化
外部は小見山商店の正面と裏を、内部は一階から三階まで細部にわたり実測しました。また、測りきれない部分はデッサンによる記録をしました。 実測とデッサン、一部予測も含めて図面化をしました。予測に関しては、四角の柱をはじめとする確認はできなかったものの、家が建つためには必要なもの、および一つ下の階から見ることなどから全体を想像し、柱があることが妥当だと思われるものに関しては実測できなくとも表記してあります。 尚、図面を中心として、内部の商品など足りない部分はデッサン、写真を利用することで現在の様子をできる限り忠実に1/20サイズの模型で再現しました。
◇ ヒアリング調査 ◇
- ・安養寺(仙川) 土地の変遷について
- ・西照寺(仙川) 寺町形成について
- ・常栄寺(烏山) 寺町の様子について
- ・円照寺(築地) 築地に残った寺として
- ・正法寺(松原) 床店、土地の所有権について
- ・本願寺築地別院 築地本願寺別院について
- ・小見山順一郎氏(小見山商店会長)昭和初期の築地および小見山商店の変化について
- ・芳賀稔氏(築地場外市場商店街振興組合事務長)築地の全体的な歴史および現在の状況について
◇ 全体を把握するための文献 ◇
- ・内藤 昌『江戸と江戸城』鹿島出版会(1965)
- ・陣内秀信『東京の空間人類学』ちくま学芸文庫(2002)
- ・越澤 明『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫(2002)
- ・玉井哲雄『江戸~失われた都市空間を読む』平凡社(1994)
- ・光藤俊夫『絵とき日本人の住まい』丸善(1986)
- ・原田伴彦ほか共編『図録都市生活史事典』柏書房(1981)
◇ 築地に関する文献 ◇
- ・陣内秀信『江戸東京のみかた調べかた』鹿島出版(1989)
- ・中央区教育委員会社会教育課文化財係編集『築地中央区の昔を語る9―箱崎、築地』
中央教育委員会社会教育文化財係(1995) - ・中央区教育委員会社会教育課文化財係編集『築地中央区の昔を語る1―佃島』
中央教育委員会社会教育文化財係(1989) - ・東京都『豊洲新市場基本構想~東京から拓く市場の新時代~』(2001)
- ・修士論文
- ・東京都ホームページ~築地今昔物語~
◇ 寺に関する文献 ◇
- ・地方史研究協議会『封建都市の諸問題~日本の町Ⅱ』雄山閣出版(1959)
特に、鈴木昌雄『初期の江戸における町の変遷と寺院の移転』 - ・千葉乗隆『築地別院史』本願寺築地別院(1985)
- ・東方山安養寺本堂再建記念誌
- ・西照寺のあゆみ
◇ 今回使用した地図 ◇
- ・江戸
明暦3年(1657年)頃『江戸大絵図』;都立中央図書館蔵
文久元年(1860年)『江戸切絵図~尾張屋版~』;陣内研究室蔵
安政6年(1859年)『分間江戸大絵図完』;都立中央図書館蔵
『改訂江戸之下町復元図』;都立中央図書館蔵 - ・明治
明治17年(1884年);陣内研究室蔵
明治42年(1909年);陣内研究室蔵 - ・昭和
昭和7年(1932年)『火保図』;京橋図書館蔵
昭和12年(1937年);陣内研究室蔵
昭和25年(1950年)『火保図』;京橋図書館蔵
昭和30年(1955年);陣内研究室蔵
昭和44年(1969年);京橋図書館蔵 - ・現在
平成12年(2000年)国土地理院発行1万分の1の地図;法政大学工学部図書館蔵
平成14年(2002年)『ゼンリン住宅地図』;京橋図書館蔵
◇ 絵画及び写真資料 ◇
- ・『初代広重筆別院並びに地中図』
- ・『長谷川雪堤筆別院及び地中図』;禿氏祐洋氏所蔵
- ・昭和初期の航空写真;円正寺蔵
- ・現在の航空写真;雑誌
- ・大正時代の西照寺の写真;西照寺蔵(西照寺のあゆみ)
- ・浅草御堂境内図;西照寺蔵(西照寺のあゆみ)
◆注釈◆
- ・【東京中央卸売市場築地市場】を「築地市場」
- ・【築地場外市場商店街】については初期を「商店街」、現在を「場外市場」
- ・【本願寺築地別院】を「築地本願寺」と表記させていただきます。
- <注1>京都にある本山のこと。築地本願寺はこの西本願寺の別院にあたります。
このため、築地本願寺および寺町の寺は西本願寺派と呼ばれます。 - <注2>
- ・末寺;本山の支配下にある寺。本寺に付属する寺。
- ・下寺;末寺の支配下にある寺。末寺に付属する寺。
- ・地中子院;同一境内にあって、本寺に付属する小寺。寺中子院とも。
- <注3>佃島は大阪の佃村から家康について江戸に下りて来た漁師達が出州を埋め立てて築き上げた土地です。
大阪はもともと西本願寺の本拠地があったところなので、佃島の人々は西本願寺派の門徒でした。 - <注4>当時は使用料を払ってもらう代わりに、お布施という善意の形でお金を頂いていたらしいのですが、そのうち土地の権利や法律の関係から手続きをしたところ、今のような借用関係が生まれたそうです。
- <注5>昭和41年の地図から確認できたのは円正寺の向かいの法光寺です。
しかし数年前の火事で焼失したことにより、今では円正寺と称揚寺だけになってしまいました。
その法光寺の跡地は現在10階建てのビルが建設中です。 - <注6>世田谷区北烏山のことを指します。
- <注7>調布市若葉町のことを指します。
- <注8>大田区萩中のことを指します。
- <注9>世田谷区松原のことを指します。
- <注10>平成13年12月、「東京都卸売市場整備計画(第7次)」において豊洲への移転が決定されました。
移転の理由としては、築地市場は手狭であり違法駐車、道路の渋滞が否めないこと、また流通環境の変化に対応できないこと、新たに衛生管理を強化したい、といった点が挙げられています。
当論文については、著作権は著者に帰属し、無断転載転写等は、一切、お断りします。
ご質問・お問合せは、築地場外市場商店街振興組合にご連絡ください。
(tel/03-3541-9466)