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築地を知る | 歴史

築地の歩み

  1. 1657年(明暦三年)

    江戸初期埋め立てによって築かれる

    築地は地名のとおり海を埋め立てあらたに築いた土地です。1657年(明暦三年)、明暦の大火後の復興計画で、隅田川河口部にあたるこの一帯が開発されて武家地となります。横山町辺にあった本願寺も同大火で被災して築地に移ってきました。本願寺の再建にあたっては佃の門徒たちが海を埋めて土地を築いたと伝えられています。佃の漁師たちはかつて干潟であった佃島を自分たちの手で造成したといわれるように、当時相当な土木技術をもっていたのかもしれません。

    本願寺南側の町屋は1664年(寛文四年)、日本橋魚河岸の魚問屋たちが願い出て開いたことから、魚河岸のあった小田原町に対して南小田原町と名づけられました。この頃すでに築地と魚河岸が関係しているのは面白いことです。ここから明石橋のあいだに開かれた町人地の水辺には河岸がもうけられて、魚介類も荷揚げされました。古くから魚にゆかりの深い土地であったことがしのばれます。

    築地の埋め立て工事が荒浪に難儀したおり、浪間を流れてきた御神体を祀ったところ浪が静まり工事がはかどった、という由来をもつ波除稲荷神社は1659年(万治二年)に建立されました。以来築地一円の氏神となっています。

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  2. 江戸中期

    江戸中期武家地として発展

    江戸時代の築地は大半が武家地で、大名の別荘地である中屋敷や下屋敷が多くつくられ、下級武士の邸宅も分布しています。現在の築地市場にあたる場所は寛政の改革を断行した時の老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)の下屋敷でした。お堅い政治理念と裏腹に隠居後ここに浴恩園(よくおんえん)という豪奢な庭園を築きます。二万坪の園内には中国の景勝に見立てた五十一ヶ所のミニチュア名所をつくり、春風(しゅんぷう)、秋風(しゅうふう)と名づけた池に桜と紅葉を植え春秋それぞれに楽しんだといいます。

    商業活動をみると、河口部の立地条件の良さから廻船問屋(かいせんどんや)が多く、また、武家と町人の居住が隣接していたので屋敷相手の商売を目当てに米、炭、薪、肴屋などの問屋、仲買が集中して活況を呈した様子がうかがえます。南小田原町西南には御米蔵(おこめぐら)があって、周辺に精米をおこなう搗米屋(つきまいや)が数多くできました。しかし海岸地のため潮風で米がふやけてしまい、1717年(享保二年)に浅草蔵前に移されます。その跡地は1855年(安政二年)に武芸訓練のための講武所(こうぶしょ)、1857年(安政四年)に航海や砲術訓練のための軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)、1869年(明治元年)には外国人宿泊のための築地ホテル館と、幕末の時世を象徴する施設がつくられています。

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  3. 江戸末期
    幕末

    江戸末期/幕末異国文化に隣接した漁師町

    幕末の頃、江戸に居留地をつくろうという計画が、維新をむかえ明治政府によって実現します。1869年(明治元年)築地鉄砲洲(てっぽうず)(現在の明石町付近)に設けられた外国人居留地は、あらたな首都東京における相互貿易市場として広く外国の異文化を取り入れる窓口となりました。

    「外国人の住宅ばかりで、どこからともなくピアノの音や讃美歌のコーラスを聞く時は一種のエキゾチックの気分に陶酔する」と明治の文化人内田魯庵(うちだろあん)は書いています。先進的な学問、技術を摂取する場所となった築地は、町並みにも日本のなかの外国といった趣きがあったといいます。ホテル、ミッション・スクール、病院、税関、レストラン、パン製造、活版印刷、指紋研究、測量術、建築術、語学、宗教・・・築地から次々と生まれるあたらしい事物は、明治の軽薄な欧化礼讃(おうからいさん)とあいまって、東京市民に物珍しくハイカラな文明開化の気分を醸成していきます。

    西洋風に彩られた明石町、木挽町(こびきちょう)界隈とうってかわって、南小田原町辺は「向築地(むこうつきじ)」などといわれ、昔ながらの漁師町の風情を残しました。日本画家鏑木清方(かぶらぎきよかた)の随筆に「鎮守波除稲荷の祭礼にここの獅子が出ると血を見ねば納まらない」とあるように、江戸の心意気が息づいていたのでしょう。

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    大政奉還

  4. 大正期
    震災後

    大正期/震災後魚がしと問屋街の発達

    1923年(大正12年)の関東大震災は東京から江戸の残滓(ざんし)を消し去ったといわれます。震災後の復興計画で築地界隈も変貌をとげました。区画整理による町名地番改正が混乱をうみ、晴海通りの開通で町を分断され、築地からはかつての洋風の町のイメージがうすらいでいきます。そして何よりも震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきたことが町を大きく変えました。

    海軍ヶ原とよばれた築地海軍技術研究所用地に建てられた東京都中央卸売市場築地本場は、魚河岸を起源とする水産物部と京橋の大根河岸(だいこがし)を移した青果部からなります。正式には1935年(昭和10年)の開業ですが、それまで10年あまり、業者収容に関するトラブルで産みの苦しみに似た期間を過ごしました。

    本願寺はもともと西南の方角を向いていて、参道に門前町を形成していました。しかし震災による被害で境内の多数の墓地が和田堀(わだぼり)へと移転します。そこに中央市場の盛況に合わせるように水産物商などが入ってきて、自然発生的に発展したのが場外市場です。墓地の跡地で商売をすると繁盛するという巷説どおり、全国から集ってくる食品・調理用品を扱う店舗は五百を数え、都内最大の問屋街にまで成長をとげます。

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    関東大震災

  5. 昭和

    昭和都心のサムシング・オールド

    戦時中の統制によって灯の消えた築地市場も、終戦とともに息を吹き返して空前の賑わいをみせることとなります。都民の台所といわれ世界最大の水産物流通量を誇る築地市場がこの町を代表する存在となっていきます。

    そのいっぽうで、築地川が1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催と前後して埋め立てられ、高速道路一号線につくりかえられました。小田原町は築地と町名変更され、都市化とともに昔をしのばせる風情が少しずつ消えていったのです。

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    太平洋戦争

  6. 平成

    平成築地場外が団結したまちづくりへ

    築地周辺は、高層ビル群と古き町並みが共存するまちへと変わってきました。その大きなきっかけとなったのが、2000年(平成12年)の都営大江戸線築地市場駅の開通です。若い層が増え人の流れも変わりました。あちこちに歴史をしのばせる痕跡があり、ふりかえれば築地はつねに新しいものが生まれ、その歴史を風景に刻みこんできた町であったことを認識します。

    昭和50年代より移転問題が持ち上がり、2018年(平成30年)の市場移転まで、築地のまちは大きく揺れました。

    そして現在、築地は築地場外市場を中心に多くの人で賑わっています。いつも古くてあたらしい築地。不思議さに満ちたこの町は、人びとの心をとらえてやまない魅力的な存在として、これからも生き続けていきます。

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  7. 2020年


地図で見る歴史

築地史料館

  • 波除神社と氏子たち

    萬治2年(1659)の創建時より、波除神社の建つ一角は、驚くべき変遷を遂げています。江戸時代は町家(延寳)、御米蔵(元禄)、武家屋敷(享保・文化・文政)、講武所(安政)、御軍艦操練所(文久)、明治維新になると築地ホテル館、海軍造兵廠、昭和初期は海軍経理学校、戦後は米軍キャンプ、そして現在は市場関連施設です。

    こうした時代の変遷を背景に、しかし神社は一貫して、築地の氏神であり続けています。夏の風物詩ともいえる「つきじ獅子祭」は江戸初期に始まり、大正時代には各町が競って作った30対ほどの獅子頭が練り歩き、賑わいを見せていましたが、関東大震災時、社殿とともに、ほとんどの獅子が焼失しました。

    以後、昭和12年に社殿再建、敗戦直後は半纏の生地がなく、さらしで縫い、赤い染料で背に祭と書いたとのエピソードもあります。築地場外の子供たちは、神社の書道教室に通い、祭の山車をひくうちに、氏子としての自覚を自然に身につけていきました。祭には、地域の鳶の頭(かしら)も活躍します。つきじ獅子祭では、入母屋造りの伝統を受け継ぐ立派な御仮小屋が建てられますが、これは第一区六番組「す組」の頭(かしら)たちの手によるものです。2009年で350周年になりました。

  • 築地本願寺と場外市場

    江戸時代、明暦の大火(1657)を機に横山町から移転建立された築地本願寺とともに、その境内には寺院(地中子院(ぢちゅうしいん))58ヶ寺が集い寺町を形成していました。当時、本道は南東を向き、中央の参道には桜が植えられ、その両側に寺院、墓地、講部屋、使用人の長屋等が並び、周辺とは運河と塀で仕切られていました。

    とはいえ、周囲に対して閉鎖的ではなく、盆踊りなどの行事も盛んで地域の人々の出入りも多く、境内は子供の遊び場ともなり、地域のコミュニティ的な役割も果たしていました。

    江戸から明治にかけて、火災が多発し、本願寺はその度に再建を繰り返してきましたが、関東大震災では、寺とともに檀家も罹災し、再建は困難でした。本堂は現地に再建するも、墓所は堀ノ内に移築、多くの寺院は東京郊外への移転を余儀なくされました。加えて震災後の道路計画により、晴海通りが新設され、境内はまっぷたつに分断、かつて寺院が軒を連ねていた側は、隣地に魚市場が移転してきたため、しだいに場外市場へと形を変えて行きました。

    現存する寺院は円正寺(えんしょうじ)、稱揚寺(しょうようじ)、妙泉寺(みょうせんじ)、善林寺(ぜんりんじ)の4寺。円正寺は側面に奥行き三尺の床店を配し、稱揚寺は門前左右に店子を置き、妙泉寺は建替えたビルの1階にテナントを入れ、今日の市場の風景に溶け込んでいます。

  • もうひとつの築地魚市場

    築地の町屋は日本橋魚河岸の魚問屋によって開かれたので、魚河岸のあった本小田原町に対して南小田原町と名づけられました。記録によると魚問屋は1664年(寛文四年)に大枚四千両を幕府に上納して、拝領地を賜ったとあります。それから長い年月にどのような経緯があったかは知りえません。海岸部に河岸地がつくられて、魚商が多く住みつくようになり、幕末には魚市場を形成するにいたります。

    万延期の「京橋南築地鉄砲洲絵図」に南小田原町付近に「肴店」とあるのが幕末から大正期まで存在したもうひとつの築地魚市場です。幕府白魚役の下請けをおこなった三河屋松五郎(みかわやまつごろう)が開祖といわれ、天保の改革によって日本橋魚河岸の支配力が弱まったのに乗じて生まれた新興市場でした。築地魚市場は産地に対して、日本橋魚河岸よりも高く魚を仕入れることをうたって活発に荷引きしたので、両者の間に対立が生まれます。

    これを仲裁したのが名奉行と名高い遠山の金さんで、築地の一部の業者を日本橋魚河岸に加入させて一件落着としました。その後も残った者は商売を続けて、1884年(明治17年)には「築地魚鳥市場」として東京市より正式認可を受けます。大正時代になんとなく廃れるまで、東京湾近郊の魚荷を取引したといいます。

  • 築地は海軍発祥の地

    1853年(嘉永六年)のペリー浦賀来航を機に、海防の必要に迫られた江戸幕府は鎖国以来の軍艦建造の禁を解くこととなりました。オランダの意見に基づき軍艦咸(かん)臨丸(りんまる)を購入、洋式海軍の創設にふみきります。1856年(安政二年)には長崎に初の海軍学校ともいえる長崎海軍伝習所が開かれ、航海術とともに砲術、機関などの総合技術を教えました。

    この卒業生には勝海舟(かつかいしゅう)、松本(まつもと)良(りょう)順(じゅん)、幕府天文方の小野友五郎(おのともごろう)らがいます。伝習所は安政六年に閉鎖されますが、これが前身となり築地南小田原町の堀田家中屋敷につくられた講武所内に軍艦教授所が設けられ、伝習所の卒業生が教師をつとめます。講武所が神田小川町に移転したのちは軍艦操練所と改称、学長にあたる教授方(きょうじゅかた)頭取(とうどり)には勝海舟が就任しました。

    こうした経緯から、明治新政府下で現在の築地五丁目にあたる八万坪余の諸藩屋敷跡地に海軍の重要機関が次々に建てられることになります。海軍省は1871年(明治三年)旧浴恩園跡地につくられ、春風(しゅんぷう)池(いけ)、秋風(しゅうふう)池(いけ)の大池は艦船のためのドックにつくり変えられました。敷地内には「賜山(しざん)」という築山がありましたが、ここに海軍大臣旗が掲揚され、通称「旗山(きざん)」と呼ばれます。さらに海軍将校養成のための兵学校、大学校、軍医学校、経理学校などができるなど、築地は海軍発祥の地として名実共に海防の要地となりました。

  • 築地の梁山泊

    明治維新期の築地は日本の近代化にさきがけて新奇な事物が数多く登場した町でした。西洋文化への窓口としての外国人居留地がつくられるいっぽうで、諸外国に対する防衛の意味から海軍施設がそなえられます。その流れから外交や政治の舞台ともなりました。

    浜離宮内の石室を洋館風に改装した延遼館(えんりょうかん)は、外国人接客所として鹿鳴館(ろくめいかん)が完成するまで迎賓館として使われました。ドイツ皇帝フリードリヒ三世や合衆国18代大統領グラントなどが訪れた際には、ここで明治天皇と謁見したと伝えられます。1889年(明治22年)に取り壊されました。

    本願寺近くの戸川屋敷跡五千坪を買い取り、そこに豪邸をかまえたのが、当時外務次官と大蔵次官を兼任していた大隈(おおくま)重信(しげのぶ)です。大隈は豪胆な性格として知られ、かれを慕ってたくさんの人材があつまりました。伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)、井上(いのうえ)馨(かおる)、渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)、山県(やまがた)有(あり)朋(とも)、五代(ごだい)友(とも)厚(あつ)、前島(まえじま)密(ひそか)ら開明的急進派たち、のちに明治政府の中枢をしめる役人ばかりです。

    築地の私邸にはそうそうたる顔ぶれが何十人も食客のように居ついては政治談議にふけったといいます。そこで中国の小説『水滸伝(すいこでん)』に出てくる豪傑たちがたてこもった場所に見立てて、大隈屋敷は築地の梁山泊(りょうざんぱく)とよばれました。大隈は梁山泊で若手の急先鋒らとひざをつめ、論議を重ねながら、鉄道、貨幣と度量衡(どりょうこう)、電信、などの新時代の政府施策を手がけていきます。

    築地はあたらしい日本の政治が胎動した場所でもあったのです。

  • 外国人居留地の明暗

    1858年(安政五年)の日米修好通商条約のねらいのひとつが江戸の開市でした。駐日総領事タウンゼント・ハリスは江戸の貿易でよほど儲けられるともくろんだのでしょう。日本人も築地に居留地ができれば、外国人を中心とした繁華街が形成される、と考え、商売をあてこんだ人もいました。ところがその期待は大きくはずれます。

    幕府が瓦解し、江戸の六割を占めていた武家地は荒れ放題。仕方なく明治政府は桑茶畑開墾を奨励する始末です。米国が上客として、あてにしていた大名たちはどこかへ消えていました。

    これではいけない、何とか人を集めようと、居留地の隣に新島原という外国人向けの遊郭をつくります。しかしこれも経営不振で一年で廃止となる有様で、外国人はより栄えていた横浜へ行ってしまいます。築地居留地のスタートはまったく期待はずれのものとなりました。

    おいおい居留地に住む外国人は増えていきますが、今度はかれらの不法行為に悩まされます。居留地ではさかんに米の空相場、酒や阿片の密売がおこなわれました。取り締ろうとしても治外法権によってままなりません。そこには外国に対して不当に低い地位に甘んじる日本の立場が現れています。1899年(明治32年)に条約改正となると、やれやれとばかり居留地は廃止となりました。

    国際市場としての繁栄をみることはできませんでしたが、居留地に住んだ外国人のうちには、文化、学問、技術の伝道に尽力した人もたくさんいて、日本の近代化に大きく寄与しました。とくにキリスト教が解禁となり、ミッションスクールや外国語学校、病院などが開かれて文教地区として発展したことは意義深いものでした。

  • 幻の築地ホテル館

    日本最初のホテルが南小田原町に建設されたのは1868年(明治元年)のことです。
    1858年(安政五年)の日米修好通商条約締結をきっかけに、外国人が江戸に居住する場所が必要となりました。幕府は築地鉄砲洲に外国人居留地を計画し、さらに近代的ホテルの建設にかかります。

    設計者は横浜・新橋の停車場を設計した米国人ブリジェンヌ。施工には現清水建設の祖、二代目清水喜助氏があたりました。通称「築地ホテル館」、外国人からは「江戸ホテル」と呼ばれます。

    木造四階建て、かわら屋根になまこ壁、ベランダのある接客室に鎧戸つきの窓をもうけ、海に面した中庭には日本庭園を築く和洋折衷様式。何より印象深いのが、火の見やぐらからヒントを得たといわれる屋上塔で、これはのちに海運橋(かいうんばし)の第一銀行など近代建築にもとりいれられました。塔上からの眺望は江戸の町並みはもとより遠く房総から富士山まで見渡す絶景だったといいます。江戸湊を行き来する帆船や白魚漁のいさり火など、外国人の眼にはさぞエキゾチックに映ったことでしょう。

    しかし、幕末から明治初年にかけて江戸東京の治安が悪かったこともあり、ホテル館を訪れる外国人客は減少します。経営難からホテル館は明治三年に閉鎖され、同五年の銀座大火により惜しくも焼失してしまいました。

    竣工からわずか五年。ひとときの幻のような存在でしたが、当時の東京市民にとってホテル館の威容はたいへんな驚きで、あたらしい首都東京の名所として数多くの錦絵に描かれています。ホテルのあった海岸辺は“ホテル下”と呼ばれ、地元の遊泳場になったといいます。

  • 築地川にかかる橋

    いつから築地川と呼ぶようになったかは分かりません。埋め立てた土地をとりまく海水で、汐の満ち引きはあっても川の流れではありませんでした。『東京府志稿』では築地渠(きょ)の名をつけて、この内側を総名築地という、とあります。

    三島由紀夫の小説「橋づくし」では築地川の七つの橋を渡りますが、そのとおりにたどると、ます中央区役所前にある三吉橋は1929年(昭和四年)につくられ、Y字のユニークなかたちから当時の東京名所となります。ここを通ると橋をふたつ渡った勘定です。次の築地橋は明治の演劇興隆の中心であった新富座と築地を結ぶ橋で市電が通っていました。

    現在の新大橋通りにかかるのが入船橋、そこから川は南へ向きを変えたところが現在のあかつき公園になっています。五番目の暁橋は今も公園内で何とか橋としての面目を保っています。境橋は現在ではみられませんが、明治時代に立教大学があった頃に築地と結びました。江戸時代は数馬橋(かずまばし)といい北詰が浅野内匠頭(たくみのかみ)の屋敷でした。最後の備前橋(びぜんばし)は本願寺へと渡る橋ですが、ここも現在は名前が残るのみです。

    三吉橋下から首都高速に沿って流れていた築地川。晴海通りにかかる万年橋は橋杭が石でつくられ「万年もつ」という意味からつけられました。采女橋(うねめばし)のあたりはその昔、かわうそが出て人をばかしたといわれ、日が暮れると一人歩きをしなかったといいます。川の流れは築地市場の脇から隅田川へと抜けます。 波除神社と築地市場内を結ぶ海幸橋(かいこうばし)は昭和2年に架橋、魚河岸の繁栄と豊漁を願って名づけられました。やや南東部にはかつて安芸橋(あきばし)がかかっていました。橋を渡った稲葉の中屋敷には咳の爺婆(じじばば)という石像があり、咳のわずらいに霊験あらたかということで人が参集したといいます。

  • 築地市場開設の苦難

    現在の築地市場水産物部は、1923年(大正十二年)関東大震災により焼失した日本橋魚河岸が移転してきたものです。単に場所を移しただけでなく、特異な歴史をもつ魚河岸が中央卸売市場として生まれ変わるのは容易なことではありませんでした。

    魚河岸は民間市場であり、大多数が問屋兼仲買として浜から魚を集荷し販売しました。また、公道使用料である板船権(いたぶねけん)や桟橋(さんばし)使用料の平田船権(ひらたぶねけん)といった特有の既得権があり、長い間につちかわれた商習慣がありました。それが中央卸売市場に再編成されて商売がまるで変わるのですから一筋縄ではいきません。中央卸売市場では集荷をおこなう卸会社と、卸会社からセリによって仕入れた魚を販売店へおろす仲卸業者に分業されます。かつての問屋・仲買は株を買って会社へ入るか、仲卸業へと転ずるかを選択しました。

    公的市場への移行によりかれらの既得権は失われてしまい、その補償をめぐっては社会事件にまで発展する騒ぎとなります。さらに卸会社を一社とするか複数つくるかで市場は二つに割れました。単一会社は市場業者の集荷力を高め、当局の管理にも有利でしたが、生産者や小売商、市場の少数派は複数会社の公平性を主張し対立します。

    さまざまな混乱を経て、ようやく昭和十一年に開場となるも、まもなく戦争による統制経済で市場機能は事実上停止。戦後はGHQの占領下におかれます。その後、複数卸会社の出現、仲卸復活によって公正公平な築地市場が機能を発揮するのは昭和30年頃のことです。築地移転から30年余にわたる長い道のりでした。

  • 場外市場いまむかし

    現在、場外市場と呼ばれる地域(現:食のまちづくり協議会)は、異なる歴史的背景を持つ3つのエリアから成り立っています。1つは、築地六丁目南町会と海幸会(かいこうかい)のエリア(波除神社前から旧小田原橋)で、江戸時代の地図には南小田原町一丁目と記され、築地埋立て以来の町家だったといわれています。

    2つは、築地場外市場商店街振興組合のエリアで、本願寺の境内にあって本寺に付属する地中子院(小寺)58ヶ寺が集う寺町でした。3つは、共栄会を含む築地4丁目の西側のエリアで、明治維新で上地されるまでは武家屋敷でした。

    町家と寺町と武家屋敷・・・この3つの地域が、大正12年の関東大震災後で全焼し、隣接する海軍用地に築地本場が開場したのを機に、場外市場が自然形成されていきました。当時、人々は暮らしながら商いを営み、市場でありながら、銭湯・床屋もあれば子どもらの賑やかな声も聞こえる町でした。やがて第二次世界大戦の敗色が濃くなり、食品は価格統制され、疎開する家族も多く、東京大空襲による全焼こそ免れましたが、戦争は町に暗い影を落としました。

    戦渦を免れたこの町の復興は早く、戦後は繁栄の一途を辿ります。やがて、場外になだれ込むヤミ屋の横行に対抗する手だてとして、本願寺寺町跡地の商店主達は、昭和20年、築地共和会という商店会を作り、自治に乗り出します。この会が、平成5年に法人格を得て設立される築地場外市場商店街(振)の前身です。昭和23年、築地6丁目南の商店の有志は海幸会を結成、当初は気楽な無尽の集まりでしたが、時代の変遷とともに商業団体としての結束を強くします。戦後、築地4丁目交差点角の林医院の建物を買取り、営業をスタートさせた30数店舗は共栄商業協同組合を結成し、昭和63年には現在の共栄会ビルを建てました。

    このように、築地に各々の歴史を刻んできた築地4丁目町会・築地6丁目南町会・築地場外市場商店街(振)・共栄商業協同組合・海幸会(かいこうかい)の5団体が集い、平成18年「築地食のまちづくり協議会」を発足させました。ともに手を携えて未来の場外市場の発展を目指すためです。